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ブリヂストン美術館がカイユボットの《イエールの平原》を新所蔵&展示
2015-02-21ランダム表示
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アルジャントゥイユについたらLe Stade、Argenteuilどちらで下車しても
目指すのはカイユボットが描きました「アルジャントゥイユ橋」です!
「アルジャントゥイユ橋とセーヌ川」
Argenteuil駅からのが近いかな。徒歩で行くことができます。
久々(すぎる…)の「行ってきました」シリーズ。
今回はパリを離れてアルジャントゥイユです!
19世紀、鉄道ができたことによってアルジャントゥイユへのアクセスが容易になり
印象派の画家たちはそこによく集うようになりました。
カイユボットはもちろん、モネやルノワール、シスレーらもアルジャントゥイユを題材にした作品を描いています。
シスレーの描いたアルジャントゥイユ
アルジャントゥイユまでの行き方は簡単!
サン・ラザール駅から出ているSNCF(国鉄)の近郊線でLe Stade駅、またはArgenteuil駅下車。
ただし、アルジャントゥイユを通らない列車もあるので気をつけて!
時間にして20分くらいだったと思います。
↑クリックで全体の路線図が開きます。
アルジャントゥイユの駅
乗ってきた鉄道の橋(GoogleMapより)
↓
↓
↓
そして・・・カイユボットが描いた「アルジャントゥイユの鉄道橋とセーヌ川」です!
向こうから汽車が煙を出しながら近づいているのがわかりますか?
時代が変わって色々様変わりしてしまってもカイユボットの作品を追体験できるなんてネ・゚:*(人´ω`*)
パリを離れる・・・というとなにやら恐ろしく感じましたが
列車に乗れば最寄りの駅につきますので大丈夫!レッツGO!!
1978年10月22日に、母親のセレステが亡くなったこともあり
ギュスターヴと弟のマルシャルはミロメニルの家を離れ、
翌年からオスマン大通りの31番地に2人で暮らし始めました。
この家はオスマン大通りとグリュック通りの角地にあり、上から二番目の階だったため非常に見晴らしのいい住居でした。
この写真の手前がグリュック通りで、向こう側がオスマン大通りになります。
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カイユボット(ギュスターヴ)はそこからの眺めをたいそう気に入ったようで
そこから見える通りの様子や上から見た眺めを数多く残しています。
2人の家には多くの友人が訪れ、カイユボットは友人たちの様子なども描きました。
[上から見た眺め / view from upper]
[バルコニー / balcony]
ここにカイユボット達が立っていろいろながめたのかなぁ・・・ (*´∀`*)
1881年または1882年にパリの郊外に引っ越しをするまでこの家で過ごしています。
この建物の下は1990年よりソシエテ・ジェネラル証券によって使われています。
中はこんなみたいですよ( ゚Д゚)
もちろん改装をしたとは思いますが、パリの中心地にあってこの内容。。。
きっとこのカイユボットのアパルトマンも随分お高いお値段だったのでしょうね。
こちらはヴァンティミーユ通り20番地のアパルトマン。
ここは1876年頃、カイユボットがアトリエとして使用していました。
その後1878年からモネが借り、1881年から1882年まではカイユボットと二人でシェアしていたようです。
1878年10月から1881年秋までモネの家賃はカイユボットが払ってあげていたことが分かっています。
このアパルトマンは右の棟と左の棟からなっているのですが、
モネがひとりで住んでいた時は1階と左の棟を借り、カイユボットとシェアしていた時はカイユボットが初めに左の棟の一階を借り、そしてその後右の棟を借りたそうです。
その他、カイユボットが手紙でここを集合場所に指定したりちょくちょく出てくる場所です。
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続いてカイユボットが生まれたフォブール=サン=ドニ通りの近く。
デュ=ガール(2Gare)通りとアルザス通りの角地にある土地。
当時その建物が何に使われていたかは分かりませんが、
今はホテルになっています。
となると建物もすっかり建て替えられているかもね。
普段のパリ観光に向く場所じゃないけど、東駅、北駅に近いのでどこかとパリを鉄道で行き来するような旅の時は利用してみてもいいかも。
お父さんがこのビルを所有したのは1871年。カイユボットが23歳の頃です。
前年におこった普仏戦争でカイユボット家はお金を儲けたのでその勢いで買ったビルかもしれません。
カイユボット自身は普仏戦争に招集され、1871年終戦の少し前に除隊しています。
この頃ナポレオンが退位し、パリ・コミューンが樹立するなどパリの政治は大揺れに揺れていました。
そういったことも関係したのかもしれませんが、カイユボットは、それまで志していた法律の道をあきらめ画家を目指すようになります。
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カイユボットのお父さんが所有していた貸しビルのご紹介。
(地味??)
リスボン通り15番地とコルベット通り8番地からなる角地にあるビルです。
カイユボットが18歳、ちょうどミロメニルの家が完成した1866年で、
その家のすぐ近くにあります。
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このビルは当時臓物屋&肉屋とアパートでした。
なんと、現在もブーシェリーとして存在しているんですよ!
(例によって代々かどうかは分かりません。。。)
残念ながらこの日はお休みみたいで中は何も見えませんでしたが
ちゃんと「BOUCHERIE」と店先に書いてあります。
実はカイユボットは肉塊の絵を何枚か描いています。
もちろん牛の解体はレンブラントも描いていますし、変わったテーマというわけではないですが。
これら肉の絵を描いたのは1882年頃とだいぶ先になりますが、
この肉屋さんの影響が何かしらあったのかな〜と考えたりしていまいます。
このビルはお父さんが亡くなった時にカイユボットの異母兄(父親の連れ子)のアルフレッドに残されましたが、彼自身はここには1度も住むことはありませんでした。
住まなかったのはアルフレッドの職業(神職についていました)に関係していたのかもねー。
続いて(…といいながら前回の「行ってきました(4)」から一ヶ月の時が流れてしまった・・・・。ぼーっとしてたらいけないですね^^;)ヨーロッパ橋より後に描かれた「パリの通り、雨」。
これまたカイユボットの代表作のひとつです。
パリの通り、雨
カイユボットがこの作品を描いた当時は車も走っておらず広々とした往来に見えますが、
現在は向こうに渡るのも一苦労な交通量と狭さです。
でも当時の面影を存分に味わうことが出来ます!
比べてみると、建物の形やバルコニーの雰囲気がほとんど一緒なのがわかります。
そしてヨーロッパ橋と同様、カイユボットはずいぶんと広角で描いたのだということもよくわかります。
正面建物の一階はファーマシーになっています。
なんと(代々かどうかは分かりませんが)カイユボットが作品を描いた時も、ファーマシーが営業されていたようですよ!
ヨーロッパはこういうところが本当にすごいなぁ。
テュラン通りにあるテュラン病院の上(北)の緑のポイントから北方面に向かって描かれています。
緑色の三角のエリアがファーマシーのある正面の建物です。
こちらもそのままヨーロッパ橋から歩いて行くことが出来ます。
左下の緑のポイントがヨーロッパ橋ですから、本当に近いんですよ。
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ヨーロッパ橋の場面へはカイユボットの家から歩いて行くことが出来ます。
この通りをカイユボットがスケッチブック抱えながら歩いたのだろう!
なんなら隣にモネもいたかもしれない!とうきうきしながら歩くのが吉。
ヨーロッパ橋
「ヨーロッパ橋」というタイトルですが、実際は「ヨーロッパ(ユロップ)広場」です。
近くにはローマ通り、マドリッド通りなどヨーロッパ各都市の名前がついた通りが数多くあります。
そしてヨーロッパ広場自身は6つの通りが交わる六差路の中心となっています。
広場というか、ロータリーに近いかもしれません。
その下には、すぐ近くのサン・ラザール駅から伸びた線路が走っています。
さて、カイユボットの「ヨーロッパ橋」が描かれたのは
その6つの通りのひとつヴィエンヌ通りから眺めた物です。
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あー、写真がへたくそでごめんなさい。
雰囲気は変わってしまっていますが、
奥に写っているこの屋根はカイユボットの「ヨーロッパ橋」にも描かれています。
そしてこうして写真と比べてみると、カイユボットが随分と「広角」でまた鉄柵を強調して描いたか、ということがよく分かりますね。
ただ橋の鉄柵部分はかなり変わってしまっています。
エッフェル塔みたいにごつかった鉄柵は今はこうなっています。
奥にあるのがモネの絵で有名なサン・ラザール駅。
ここもモネが描いた三角屋根があって一見の価値ありです♪
モンソー公園の話が出ましたので、モンソー公園を。
モンソー公園は、18世紀に出来たイギリス式の庭園で、地下鉄Monceau駅から歩いて行けます。
この公園を通り道にしてたくさんの人が歩いています。
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なぜか色々な遺跡風のものが点在。
ピラミッド、ローマのコリント式円柱、廃墟的な石碑など。
この庭園を造った人の趣味でしょうか??
カイユボットは1877年と78年頃にモンソー公園の描きました。
77年の方は公園の小道を。
これはタイトルがないとモンソー公園かどうか判断は難しいですね。
モンソー公園
構図は違うけど、こんな感じかなぁ?ベンチがあって遺跡が無くて。
78年頃のほうは遺跡があって、
根気があれば、どの場所だか特定できそう!
モンソー公園
今回は時間が無くて駄目だったけど、いつか特定してみたい。
この公園はモネも描いたことがあるそうです。
行ってきました第二弾。
本当は時系列的にはお父さんが別荘を買ったイエールが先なんですが、
飛んでミロメニル77番地の邸宅です。
カイユボットが18歳の頃、父マルシャルが当時できたばかりの高級住宅街に建てた家です。
残念ながら1898年にだいぶ建て替えられてしまったとのことです。
今もきっとどなたかが住んでいるのでしょう。
ただ、カイユボットが住んでいたというプレートはあります。
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GUSTAVE CAILLEBOTTE 1848-1894
MECENE DES IMPRESSIONNISTES ET ARTISTE-PEINTRE
A VECU ET TRAVAILLE ICI
ギュスターヴ カイユボット 1848-1894
印象派のパトロンであり画家
ここで暮らし、活動
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この家にはカイユボットのアトリエがあったと考えられています。
「ストーブのあるアトリエ」
また他に何枚かこの家の中と思われる絵も描いています。
第二回印象派展に出展された「窓辺の若い男」。
モデルは弟のルネで、ミロメニル通り側の窓から外を眺めています。
この時は鉄柵ではなかったのですね。
同じく第二回印象派展に出展された「ピアノを弾く若い男」。
こちらはもう一人の弟マルシャルです。
さらにカイユボットの代表作の一つ「床の鉋かけ」もこの家だといわれています。
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この家で暮らしていた頃、カイユボットは印象派の仲間たちと出会い、
彼の代表作が生まれたのですねぇ。うんうん。
おすすめは地下鉄Monceau駅からモンソー公園を抜けて家を見学、
そのまま「ヨーロッパ橋」や「パリの通り:雨」の描かれた場所に向かうコースです♪
ちなみにジャン・ベローもこの家の絵を描いています。