カイユボット.net
パトロン
印象派支援、support as patron


カバネル『ヴィーナスの誕生』(1863年)
Cabanel 'The Birth of Venus' 1863
印象派が活躍していた当時、絵画は歴史や宗教などの題材を理想化して描くものであって、印象派の画家達のように戸外で、大胆な筆致で描くものではありませんでした。
また画家として活躍するには「サロン」と呼ばれる展覧会で合格することがほとんど必須でした。
しかし当然ながら印象主義の絵はなかなか合格もせず、一般の人々からの理解も得にくい状態でした。

そんな中でも、印象派を理解し支援した人々はショケシャルパンティエなど何人かいました。カイユボットもその中の一人です。

〜カイユボットの役目とは〜


バジール『家族の集い』
Bazille 'Family Reunion'
彼らよりもはやく印象派を理解し、助けていたのがフレデリック=バジール(1841-1870)です。
自分自身もバティニョール派の画家であったバジールは、裕福な家庭の生まれで、仲間の作品を購入するなどの金銭的な援助をしたり、サロンに頼らない独自のグループ展を開く努力をするなど、初期印象派の金銭的、精神的支えになっていましたが、普仏戦争に徴兵され29歳の若さで戦死しました。

バジールの死後、彼にかわり、彼と同じ役目を果たしたのがカイユボットです

カイユボットは社会的な立場だけではなく、明朗な精神と冷静な見方、確かな誠実さといった性格もバジールとよく似ており、バジールの死後空白になっていたグループでの役割を、今や彼に代わって担うようになった。すなわち、仲間であり同時にパトロンの役割だ。カイユボットは、ルノワールやモネの作品を好きであっただけでなく、同時に彼らを助けるために購入し始める。彼の助けはとても必要とされた。
(参考文献Book8より引用)

〜金銭的援助〜

カイユボットは第一回印象派展(1874年)の頃に印象派の画家たちと知り合いになったと考えられています。
カイユボットは印象派展のための場所探し、前払いの資金提供、参加者とのやりとりなど、様々な形で開催に尽力し、また個人個人のためにお金を工面したり、画材を買うお金を提供したり、作品を買うことで資金援助をしました。

カイユボットのモネへの金銭的援助の記録

西暦 年齢  
1876 28 7月:何度かに渡りお金を貸す。合計480フラン。
8/9:330フラン
12月末:700フラン
1877 29

1月:100フランを2回
1/17:この日モネが引っ越しをするが、モネの借りた2部屋の借り賃をカイユボットが1878年7月まで支払っていた。
3月: 430フラン
4月:250フラン
6月:140フラン
8/31:50フラン
9月:200フラン
10月:110フラン渡し、カイユボットがモネのために60フランの額縁を買う。
12月:20フラン

1878 30 1/3:5フラン
1/14:100フラン
1月末:150フラン
4月:40フラン
5/10:10フラン
5/22:10フラン
5月:40フラン
7月:モネがモンソー通りから引っ越すお金をカイユボットが支払い、さらに100フラン渡した。1878年10月から1881年秋まで家賃はカイユボットが支払っていた。
12/24:モネにかわってカイユボットがル=バリカン廷吏に15フランを支払う。これは1867年1月16日に判決が下されていた訴訟のお金だと思われる。カイユボットはこれ以前にもモネの1877年、1878年の借金を代わりに支払っている。
1879 31 4月:2,500フラン、さらに400フラン
7月:1,000フラン
8月:200フラン
9/17:500フラン
10月:700フラン
12月:100フラン
1880 32 2/24:100フラン
8/8:200フラン
10月:240フラン
11/10:モネはカイユボットに200フランを返したが、また300フランを借りる。
12月:100フラン
1881 33 1月:500フラン
2月:100フラン

*これだって記録に残っている分だけで実際はもっとあると思われます。それに貸したんだかあげたんだか^^;

〜リュクサンブール美術館への寄贈〜

1876年、28歳の時に「私の所有する絵を寄付する」「屋根裏部屋でも、地方の美術館でもなくリュクサンブール へ、後にルーヴルへ受け入れられることを望む」と遺言をしたためました。
カイユボットの遺言はこちら »

1894年、45歳でにカイユボットが死亡した後、この遺言はルノワールと弟マルシャルの手によって遂行されますが、当時はまだ印象派の絵画は世間にはあまり認められていなかったため、 アカデミーやサロン派の画家だけでなく 一般の人々も反対するなどその受け入れをめぐって論争が起こりました。 (カイユボット事件)
難航はしたものの1896年にリュクサンブール美術館にコレクションが寄贈されます。

印象派の絵画が散り散りにならず、 パリのオルセー美術館で現在まとめてみることができるのは 彼の功績によるところが大きいと言えるでしょう。
カイユボット死亡時に所有していた作品 »

金銭的な支えのみならず、自分たちの作品を認めてくれる人物がいるということは、印象派の画家達にとって精神的な大いなる助けとなったことでしょう。


© Caillebotte.net All rights reserved