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ブリヂストン美術館がカイユボットの《イエールの平原》を新所蔵&展示
2015-02-21ランダム表示
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風呂から上がる女(1876/77)
パステル、16×21cm
パリ、オルセー美術館(RF12255)
財産目録:ドガのによるパステル、「浴室」
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:風呂から上がる女。メイドがバスローブで彼女を覆おうとしている。
遺贈時の名前:風呂から上がる女(Femme sortant du bain)
美術館への遺贈:許可★
夕暮れのカフェテラスの女性達(1877)
パステル、41×60cm
パリ、オルセー美術館(RF12257)
財産目録:ドガの大通りのカフェのドローイング
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:4人の女性が誘いを待つ喫茶店。4人のお嬢さん達は衰えた体で疲れてやつれている。
二人は非常に表現力豊かな身振りの対話をしている。けだるさの中の内緒話、ひとりは親指で歯を押し上げ、もう一人は「そうじゃないのよ!」といっている。
素晴らしい支配を与えられたパリの1コマですが同時に滑稽で哀れです。
後ろの鏡には大通りの風景が映し出されている。
遺贈時の名前:カフェ、モンマルトル大通り(Un Cafe Boulevard de Montmartre)
美術館への遺贈:許可★
カイユボットの絵はよく「広角レンズでとらえたような」といういい方をされていて、
実際にKirk=Varnedoeというアメリカの学芸員の方がカイユボットの作品の通りの写真を撮って研究をされてます。
#興味のある人は是非手に取ってみてください♪
#かなり難しいけど、みてるだけでもおもしろいので。
しかし、おもしろいことに、カイユボット自身が自分の作品の構図のために
写真を撮ったという記録は(少なくとも私の知る範囲では)残っていないのです。
デッサンは残っていますが、写真はないんですよ。
カイユボットの弟のマルシャルが写真を撮るのが好きだったので、
もちろんカイユボットも撮ったことはあると思うのですが、
彼は撮った写真をそのまま倣って絵にするようなことはしませんでした。
最近ちょっと違うかな〜、と思っています。
写真は残っていないけれどもかなり参考にしていたんではないかと考えています。(2010/08/13)
彼はジャポニズムの影響があったにしても
「ファインダーで切り取る」という感覚が非常に優れていたと思います。
ね?
彼の風景をとらえる「眼」そのものが、レンズに近かったのかもしれませんね。
また非常に個人的な意見ですが、
こうして風景をレンズで見るかのような客観的な感覚を持っていたからこそ
カイユボットは、アカデミーや世間の評価に左右されることなく、
印象派の良さを理解し支援できたのだ、と私は思っています。
英語のwikiを読んでいたら、カイユボットの死について
[Caillebotte died while working in his garden at Petit-Gennevilliers in 1894 of pulmonary congestion ](プティ=ジャンヌヴィリエので庭いじり中に肺鬱血で死亡)
って書いてあった。
なに・・・肺とな? 超・新・事・実 w(@o@)w
しかし若干眉唾ですね。
カイユボットの死因は今のところハッキリしておらず、本によって死因が異なっています。
・Caillebotte apparently become ill while working in his garden.(Kirk Varnedoe)
(カイユボットは庭いじり中に体調を悪くしたらしい。※illが何なのかはふれられず)
・Caillebotte dies at his home in Petit Gennevilliers, probably from a stroke.(Urban Impressionist)
(カイユボットはプティ=ジャンヌヴィリエの家でおそらく卒中で亡くなった)
・Caillebotte meurt le 21 Fevrier apres une courte maladie.(Eric Darragon)
(カイユボットは2月21日急に亡くなった)
・1894年卒中で死(Ingo F. Walther)
・Frappe par une congestion cerebrale(Jean-Jaques Leveque)
(脳出血で)
うううーーーーん。
医学的なことはよくわからないけど、死因は脳卒中、脳溢血、脳出血、、、少なくとも脳に関係する感じかと思っていたけど、ここにきて「肺」ですか・・・・。
何か最新の研究で死因が発表されたのかな・・・?
まぁwikiだから話八割できいておこうかな。(フランスwikiには死因書いてなかったし)
今わかっている範囲で家系図をつくってみました。ページはこちら »
クリックで拡大します。何か変更があれば更新します。
カイユボットは1883年に、1876年の遺言の追加補足をし、あわせてモーに住む友人のアルベルト=クルティエに預けました。
この遺言の中でカイユボットはシャルロット=ベルティエなる女性に遺産の一部を残しました。
この女性はカイユボットの恋人といえる女性ですがあまり詳しいことはわかっていません。
また、ルノワールが借金の心配をしないように気遣っています。
ジェニー=クルティエ(モーで1877年6月20に生まれた)はアルベルトの娘で、カイユボットは彼女の代父でした。
(代父:洗礼式に立会い、神に対する契約の証人となる。名付け親となることもある)
* *
これは私の遺言である。
私の弟ルネが亡くなった1876年に私が作成した遺言は、私の友人アルベルト=クルティエによって発表されるだろう。
1878年の展覧会に関する意志は、当然不必要となったが、私は他の画家が描いた絵を遺贈するという意志の全ての部分を維持する。
ルノワールについては私が彼に貸したお金について決して心配があってはならない、彼の借金から完全に自由にし、彼をレグラント氏との連帯、個別責任から完全に解放するつもりである。
シャルロット=ベルティエ嬢には1万2000フランの終身年金を残す。
この年金は差し押さえられることなく、毎月支払われること。15日ごとなら更にが好ましい。この件をアルベルト=クルティエに一任する。この年金は、すべての相続税とは全く別のものとする。
私のゴッドドーター、ジェニー=クルティエに、2万フランを残す。
そして弟のマルシャルには法的に彼のものになる株に加えて、二人で所有していた不動産と私個人が所有していた不動産を譲る。
1883年11月20日パリにて作成
ちょっと前から日本語のwikiにもカイユボットの項目が登場しましたね!
wiki:ギュスターヴ・カイユボット
なんだか(勝手に)わくわくしてきました(^m^)
【2012/09/08追記】
何年か前から拙サイトもリンク先としてご紹介をいただいております。
誠に光栄ですmm
ムーラン=ド=ラ=ギャレットのダンスパーティ、1876
キャンバスに油彩、131×175cm
パリ、オルセー美術館(RF2740)
財産目録:ルノワールによる絵画「ダンスパーティ」
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:パリの詩情、ダンスと愛と太陽の光に酔いしれる見事なムーラン=ド=ラ=ギャレット
遺贈時の名前:ムーラン=ド=ラ=ギャレット(The Moulin de la Galette)
美術館への遺贈:許可★
この写真はカイユボットと彼の飼い犬「ママ」です。
カイユボットは犬が好きで、彼の絵の中にも色々な犬が時々登場します。
1891年12月、プティジャンヌヴィリエの庭にてマルシャル写す。
そうそう、カイユボットの最初の遺書には、後日談があるのです。
ルノワールがカイユボットの遺産の中から一点好きな絵をもらうことになり、このドガのパステル画、「踊りの稽古/ダンスのレッスン」を選びました。
しかし1898年、こともあろうにルノワールは譲り受けた作品をデュラン=リュエルに売却してしまったのです。
ドガはこのことに大変怒り(私がドガでも怒るなー・・・)、、ドガとルノワールは不仲になったといわれています。
って、あまりこのましくない後日談でしたね。