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ブリヂストン美術館がカイユボットの《イエールの平原》を新所蔵&展示
2015-02-21ランダム表示
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この男の子の名前はカミーユ=ドレユ(Camille Daurelle)。
彼はカイユボット家の使用人のジャン=ドレユ(イエール邸の管理をしていた)の息子で、
この絵(「カミーユ=ドレユの肖像/1877」)の他にも何回かカイユボットの作品のモデルになっています。
この絵は少なくとも1894年まではドレユ家で大切にされていました。
そして、このカミーユくんだけではなく、彼のお父さんであるジャンもカイユボットの作品のモデルとなっているのです。(「ジャン=ドレユの肖像/1886-87」)
親子二代で絵のモデルになるだなんてステキですね。
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殺風景で・・・^^;
また来月からゴールデンウィークにかけて、カイユボットの年表と詳細検索を完成させたい予定でおりますのでよろしくお願いいたします。(といって自分を追い込んでいます)
カイユボットは印象派の画家達を金銭的に援助したり、作品を買い上げたり、また印象派展の開催に尽力しました。
その中でもカイユボットの最大の功績は自身のコレクションを国に遺贈したことでしょう。
カイユボットは28歳の時、自分のコレクションを「 屋根裏部屋でも、地方の美術館でもなく、リュクサンブールへ、後にルーヴルへ 」収めるようにとのとの遺言を書きました。
28歳で遺言を書くという行為がこの当時一般的だったのかどうかはわかりませんが、
二年前に父親が亡くなり莫大な財産を相続した時だったし、
法律を習っていたこともあったので不思議なことではないのかもしれませんね。
また、カイユボットがこの遺言を書いた二日前にすぐ下の弟ルネがなくなっているのです。
もやもやと遺言のことを考えていた時に弟がなくなり、遺言を形にした、というところでしょうか。
遺言を書いた年に描いた作品。右に座る男はルネがモデル。
その後も何度か遺言が付け足されましたが、「遺贈する」という彼の意志が覆ることはありませんでした。
ところがその頃印象派は一般的には認められていなかったので、その受け入れを巡って論争が巻き起こりました。
論争は「カイユボット事件」と呼ばれるほどで、いかに大きな論争だったか物語っています。
なんとかそれらの作品が受け入れられるようにと頑張った中の一人が、
ギュスターヴ=カイユボットの末弟、マルシャル=カイユボットです。
今では印象派は日本をはじめ世界で非常に人気があり、また高値で取引されています。
しかし、カイユボット事件がなかったら、
印象派が評価されるのはもう少し遅かったかもしれないですね。
この時遺贈されたカイユボットのコレクションは、パリのオルセー美術館で見ることが出来ます。
設計机の前のカイユボット。
コンパスを片手になにやらしていますが、
船の設計図を作っているのでしょうか?
あと、結構鼻が高いんですね。新発見です。
ギュスターヴには、アルフレッドという名の血のつながらないお兄さんがいました。
父と最初の奥さんの間の子で、将来は聖職者になります。
その最初の奥さんの名前はアデル=ゾエ=ボワシエール夫人。
ギュスターヴは三番目の奥さん(セレステ)の子供です。
二番目の奥さんのことについては今のところ何もわかっていません。
(※二番目の奥さんについてはこちらをご参照下さい)
ギュスターヴの下には3歳離れてルネ、さらに2歳離れて父と同じマルシャルという名前の弟がいます。
アルフレッド一人が血のつながらない兄弟だったのですが
兄弟で一緒に旅行に出かけたり、
異母兄がつとめていた教会に下の三兄弟で教会の窓を寄贈したり、
また末の弟マルシャルが結婚をしたときはアルフレッドが牧師として説教をおこなった
・・・というような話が残っています。
アルフレッドの年がひとり離れて(ギュスターヴより15歳上)いたこともあったのでしょうか、
ずいぶんと上手くやっていたように思えます。
ここまできくと、亡くなった前妻の子アルフレッドを温かく迎えて・・・
というイメージが浮かびますが、
・・・どうも、ボワシエール夫人、亡くなっていないみたいなんです・・・。
※亡くなっていました。
ギュスターヴが1877年に「編み物をするマダム・ボワシエール」という作品を描いているのです。
この時代に、離婚って普通にあったのかしら・・・???
しかも絵を描いてあげるほど家族ぐるみで仲良しなの・・・???
すごく、謎です・・・。
※こちらは、前妻のお母様がモデルでした。
アンブロワーズ・ヴォラールは有名な美術商で、カイユボットも知り合いだったであろうと思われます。
「ナポリ付近の運河のほとり」はいつどのようにかわかりませんが、ヴォラール氏が所有していました。
しかし、1940年競売にかけられてしまいます。
1939年にヴォラール氏が自動車の事故で亡くなったときに、彼の遺産が兄弟や愛人に分配されらとのことなので、その時この作品も彼らのうちの誰かに渡ってのちか、または現金として分配するために競売にかけられたのかもしれません。
その後も何度か競売にかけられ、現在はカリフォルニアにあるようです。
「名画とファッション」という本を読んでいたら(小学館・深井晃子著)「ヨーロッパ橋」のファッションについて書かれていました。
それによると、欄干にほおづえをついている男はタブリエと呼ばれる作業着を着用。
カイユボット自身がモデルだと言われるシルクハットの男はルダンゴト(フロックコート)を、傘を差した女性はハイネックのアフタヌーンドレスと黒の手袋をしている。女性が昼間に肌を見せるのはこの時代のエチケット違反なのだそうだ。
なるほど、このタブリエは他にも「ハウスペインター」の中でも確認することが出来ます。
現在タブリエはエプロンのような前掛けの意味で使われているようなのですが、
これら作品の中のタブリエはどちらかというとスモックに近そうですね。
ヨーロッパ橋の左側の男女の服装は、この時代の一般的なファッションだったのでしょう。
「パリの通り、雨」の男女も近いファッションをしています。
男性はダブルのフロックコートを着て(「パリの通り、雨」はダブルかどうかかわかりませんが)、女性はベールのついた帽子をかぶっています。
この当時女性は午後のちょっとした用事にも帽子をかぶることと決められていたようで、
その決まりに従って彼女たちはおしゃれな帽子をかぶっています。
コートというからには寒い時期なのかと思いましたが、フロックコートは結婚式で男性が着ることのある礼装と同じようなものですので、厚さ的には背広くらい。
この絵が描かれた時期は夏でもなく冬でもない時期といえそうです。
「パリの通り、雨」の方は奥に長めのコートを着ている人もおり、雨ということで「ヨーロッパ橋」の方よりも気温は低そうですね。
モネが1883年から晩年まで住んでいたジヴェルニー。
睡蓮シリーズを描いたその場所は「モネの庭」としても有名です。
今日そのモネの庭について書かれた本を読んでいたら
どうやらカイユボットもこのジヴェルニーのモネの家によく訪れていたそうです。
モネが晩年住んでいた家
モネの庭にいったことあるのにー!
その時はまだそんなこと知らなくて!
知っていたら空気をもっとい〜〜っぱい吸ってきたのに!
悔やまれますぅ。。。
カイユボット自身も庭いじりが好きだったので情報や球根の交換とかしたかもしれないですね。
庭師たち 1877年
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あらすてき、
こんな風にあなたのiPodTouch / iPhoneに「ヨーロッパ橋」のアイコンが追加されます。
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