カイユボット.net
その他
詳細年表、chronology
西暦 年齢  
1848 0
8/19: ギュスターヴ=カイユボット誕生。
パリの10区フォブール=サン=ドニ(Faubourg-Saint-Denis)通り152番地(当時の160番地)。(地図
マルシャルは実業家であり、一家は裕福な家庭だった。
8/21: 洗礼を受ける。
1850 2 もともと作業小屋などのあった敷地に庭付きの一戸建てを建てる。(地図)
1851 3 1/27:弟ルネ誕生(〜1876/11/1)。
1852 4
4/17: 父マルシャルがセーヌ=エ=マルヌ県、モー(Meaux)の近くのピュイジュー(Puisieux)のシャンフルーリ農場を365,000フランで購入(地図)。そこには邸宅と農業施設、管理施設、果樹園、庭園、150ヘクタール以上の森、牧場、耕作地があった。
1853 5
4/7: マルシャル誕生(〜1910/1/16)。
1857 9
10/6: リセ(中等教育課程)ルイ=ル=グラン(Louis-le-Grand)校に14歳まで通う(注:パリの名門校)(地図)。そこは異母兄アルフレッドも通っていた学校だった。
ヴァンヴ(Vanves)にある寄宿学校で生活し、文学の科目で多くの優秀賞を獲得。
1858 10
5/29: 異母兄アルフレッド、聖職者になる。
1860 12
4/26: 最初の聖餐式を行う。
5/12: 父マルシャルがセーヌ=エ=オワーズ県のイエール(Yerres、当時はYèresとつづる)のほとりに土地を136,000フランで購入。
1861 13 イエールに別荘を構える。地図
一階には玄関ホール、ダイニングルーム、応接間、小応接間、ビリヤードルーム、オフィスや様々な設備。二階には図書室と18のベッドルーム。 ボートと11ヘクタール以上もあり川に接する広大な敷地、庭木用の館や温室などの離れがあった。
8/14: セーヌ県の商業裁判所の裁判官でもあった父マルシャルが、レジオン・ドヌールを受勲。
1862 14
10/3: ルイ=ル=グラン卒業。
3eBというクラスでマダム・アリビラガがwritten communicationの担任だった。
次の教育課程に進んだかどうかは不明である。
1863 15 父マルシャル、イエールの土地にホール、ロッジ、教会を建てる。
このことは、1887年の弟マルシャルの結婚式の時に異母兄アルフレッドが説教の中で語った。
1864 16
8/4: イエールに建てた教会をパリのサンロラン教区の教皇アルフレッド=ドゥケスニーによってノートルダム=ドゥ=リエールに奉納。
イエール教区の教皇でありパリのサン=エリザベスの神父オーガスタン=ビューモンとベルヴィーユのサン=ジャン=バプテスト教区の牧師アルフレッド=カイユボットが立ち会い、カイユボット家とイエールの市長補佐のトーマス氏が同席した。
1866 18
1/15: 父マルシャルはオスマン男爵が知事を務めるパリ市から148,780フランで8区のミロメニル通り(Miromesnil、当時はMiroménilとつづる)77番地とリスボン通り(Lisbonne)13番地からなる角地を購入。その土地にローンで屋敷を建て始める。そこは政府によって新しく作られた高級住宅街だった。
6/24: 弟マルシャルがイエールにて最初の聖餐式を行う
11月: ミロメニル77番地に邸宅完成。(地図
記録によるとそれらの資産価値は土地を含め350,000フラン近くと推測され、その屋敷については地上階(1階)、2階と3階、4階は軒付で建てられたと記されている。 すべての階に温水がに行き渡っており、ミロメニル通り側にはひとつの階につき7つの窓が、リスボン通り側には5つの窓があった。1階は使用人が使用しており、作業用の設備があった。 その上の階は、作業部屋、小さな応接間、応接間、ダイニングルーム、オフィス、ビリヤードルームがあり、石階段で荷物用玄関の上にある室内用温室のある控え室に行けるようになっていた。 3階はそれぞれの部屋に化粧室があるベッドルームが6室と、ヒーター付のバスルームがあり、 4階には6人の使用人のベッドルームと様々な貯蔵室が、中庭には荷物小屋と3台の馬車のための厩舎があった。 すべての建物に水道、ガス、電導性の呼び鈴が行き渡っていた。
この建物は今でも建っているが、1898年にふたつの階が加えられ、ほとんどが建て替えられた。
さらに父マルシャルはリスボン通り15番地とコルベット通り8番地からなる角地に貸しビルを建てる。そこは臓物屋と肉屋とアパートとして使用された。(地図
後にこの建物は異母兄アルフレッドに残されたが、アルフレッド自身はここには一度も住まなかった。
1867 19
2/3: 父マルシャルがイエールの委員に任命される。(任期2年)
1868 20 フォブール=サン=ドニ通りにあった建物がパリ再開発の一環としてすべて壊される。
父マルシャルはパリ開発事業の出資者でもあった。
7/9: ヴェルサイユの司教がイエールの司教代理ビューモン神父に、夏期にはチャペルとなるカイユボット家の温室で、就任ミサを行う許可を与えた。
8/1: 法律の学位を取得。
軍に召集され、シェルブールとルーアンの歩兵隊に所属。69年6月から70年6月にかけての兵役は親に免除金を支払ってもらいパリで法律の勉強を続ける。
1869 21
4月: 法律大学資格免状を取得。
1870 22
7/6: 法律免許を取得(23日という説もあり)。
7/26: セーヌ県の機動憲兵隊(第八歩兵隊第七隊)に召集され、8/30〜翌年3/7までプロイセンと戦う。(普仏戦争
軍の記録にはカイユボットについて「身長167cm、赤褐色の髪とまゆげ、グレーの瞳」と記されている。
1871 23
3/7: 除隊する。
正確な時期は不明であるが、普仏戦争が終結してからしばらくして異母兄アルフレッド、弟ルネとともにスウェーデン、ノルウェーへ旅行をした。
父マルシャルが北駅と東駅を結ぶ新しいデュ=ガール通りとアルザス通り角地からなるビルを所有する。(地図
この年フランスは第三共和制に入り、カイユボットは法律の道をあきらめて画家を志す。
1872 24 父マルシャルとイタリアへ旅行にいき、そこでデ=ニッティスと交流を持った(?)
カイユボットは、その頃パリとロンドン、イタリアを行き来していた画家のジュゼッペ=デ=ニッティスに、彼の息子ジャック(ナポリ近くのレジーナで7/19に生まれた)のゴッドファーザーを頼まれたとみられる。だが、その確かな証拠は残っていない。
その話の根拠は画家であり彫刻家でもあるマルセリン=デブータンが10/28に、デ=ニッティス夫人に送った手紙に基づいている。さらに「カイユボットが画家のジャン=ベローに“デ=ニッティスが1875年秋にナポリの近くに旅行する”と書き送った」と書く。
しかし、この手紙の言葉遣いはあいまいである。

エコール=デ=ボザールに入学するために、ランクレー(原文Lancrey:注・現在のLancry通りか?)通り47番地にあった画家レオン=ボナのアトリエに頻繁に通うようになる、ただ通い始めた時期ははっきりせず、前年に除隊してすぐからだったかもしれない。1876年にはまだボナのアトリエに在籍していた。(地図
1873 25
1月: 新政府によって課せられた軍の任務をこなす。
2月: エコール=デ=ボザールの試験にボナの弟子として合格する。
ボナの弟子として合格した人はほとんどいなかった。
そのときの絵画科の名誉教授はカバネルジェロームピルスで、イヴォンが主にドローイングを担当した。ボナはそのときまだ若かったのだが、試験の審査員として非常勤講師のみを担当していた
3/18: イヴォンの絵画クラスのクラス分けのための試験でカイユボットは80人中42番目の成績だった。
学校の記録にカイユボットのことが記載されているのはこれだけである。このことから、カイユボットがエコール=デ=ボザールにほとんど通っていなかったことがわかる。
1874 26
4月: 4月15日〜5月15日 第一回印象派展(不参加)地図
カイユボットは第一回印象派展に参加はしていないが、出展者にはすでにその存在を知られていたと思われる。出品者の一人アンリ=ルアールがカイユボット家の近所に住んでおり(リスボン通り34番地)で、その家族背景がよく似ており、カイユボット自身もルアールと友人だったからだ。またルアールはドガとも知り合いであったと思われる。ドガとレオン=ボナも知り合いであった。
後にカミーユ=ピサロはカイユボット宛の手紙に「ルアールがカサットフォラン、そして君を僕らに紹介してくれた」と書いている。(1881年1月27日付の手紙より)
屋敷のリスボン通り側の右手、荷物用玄関の上の4階部分が増築される。
そこは大きなひさし窓のあるアトリエとして使用され、別階段で行き来ができた。
12/24: 父マルシャル死去。享年75歳。
地所、持ちビル、借地や様々な資産は当時ではかなりの金額、2,000万フラン以上にもなった。残された未亡人と異母兄アルフレッドを除く兄弟はミロメニルの家に住み続け、夏はイエールで過ごした。
【この頃の兄弟】
アルフレッド:サン=ジョルジュ=デゥ=ラ=ヴィエ教会の牧師兼管理人
ギュスターヴ:「画家」
ルネ:無職。ギュスターヴとミロメニルの家に住んでいた
マルシャル:パリ芸術学校の生徒。軍の予備部隊五十四列隊の一員で、この頃ボルドーに駐屯していた。
1875 27
3/24: シスレーやモネ、ルノワールらがオテル=ドゥルオで開催した競売に落札者としておそらく参加していたと考えられる。しかし落札はしていない。
4月: 「床の鉋かけ」を官展に出品し落選。
デ=ニッティスの仲間と頻繁に会うようになる。デ=ニッティスは1874年の印象派展にも出品をし、ボナの弟子であったベローやドガ、デブータン、マネらと親しかった。
デブータンはデ=ニッティスに「あなたのお宅でお会いした人々にはカイユボットを除いてあれからほとんどあっていません。カイユボットは官展に落選したので落ち込んでいました。」と書いている。(1875年4月13日付の手紙より)
デ=ニッティスは夫人に「カイユボットを招待しよう。そうすれば彼は目の前にあるものから学び、さらに良い絵を描き、官展の審査員を見かえすことが出来るだろう。そしてそのことは我々の未来にもつながる。」と書いている。(1875年4月17日付の手紙より)
5/30: ビュット=ショーモンの貧しい地区に新しくできたサン=ジョルジュ=デゥ=ラ=ヴィエ教会の最初の司祭に異母兄アルフレッドが就任し、その就任式が開かれる。教会の窓はカイユボット兄弟から奉納され、鐘は母セレステによって洗礼を施された。
秋: ナポリの近くのポルティシにデ=ニッティスと滞在したと思われる。
1876 28
2/5: ルノワールとルアールがカイユボット宛の手紙に「官展ではない非公式の展覧会を開催する努力を続けることは良い結果をもたらすだろうと思う。この努力のおかげで我々はデュラン=リュエル氏と契約を結ぶことができた。彼はもっとも大きな部屋を含む二室 [原文ママ/実際は三室] を貸してくれた。君が今度の展覧会に参加してくれると嬉しいのだが。費用は出品者一人につき一口120フラン、2月25日までにデュラン=リュエル氏のところまで支払いにいくこと。オープンは3月20日、期間は一ヶ月、5点まで。もし参加の意思があるのなら早めに私達のうちのどちらかに返事を下さい。」と書いている。
2月: 23日、24日、26日モネの「Figures en plein air」を200フランで、「Les Dahlias:ダリア」を600フランで、Pochade Argenteuil:素描画、アルジャントゥイユ」を200フランで購入。
4月: 4月11日〜5月9日:第二回印象派展に初出品する。
前年官展に落選した「床の鉋かけ」が評判になる。
批評家のデュランティが「新しい絵画」の中で都市風俗を鋭いデッサン力で描写したドガとカイユボットの作品を特に賞賛した。(参考文献7-1,P125)
6/1: ドガがデュラン=リュエルのロンドン事業組合の販売業者シャルル=デシャンに「カイユボットの作品は届きましたか。彼が感想を聞きたがっているので教えていただけないか。」と手紙を書く。
7月: モネに何度かに渡りお金を貸す。合計480フラン。
8/9: モネにさらに330フラン貸す。
8/31: 弟ルネがモネの「Paysage d′hiver:冬の景色」を200フランで購入する。(ただ、このReneという文字はremis(届ける、送るという意味のフランス語)とも読め、判読が難しいがおそらくReneだろう)
また、同じ日にデ=ニッティスがモネの絵を2枚購入する。のちにデ=ニッティスはカイユボットは4枚買うといいと提案した、と書いている。
9月: 9/1〜28、第七十四隊での兵役任務を完了する。
11/1: 弟ルネが26歳で死去。
11/3: 自身の最初の遺言状作成。
11/26: 自分の作品と、ピサロの作品をパリの展覧会に貸し出す。
また手紙でピサロに彼の住むポントワーズを訪れても良いかと尋ねる。
12/1: モネの「Interior(tableau bleu)」(「apartment interior:部屋の片隅」)を150フランで購入。
12月末 モネに700フラン融通する。
1877 29 1877年か78年頃から弟マルシャルと切手収集を始める。
この共同の趣味は弟マルシャルが結婚する1887年まで続き、その間に彼らは第一級の収集家となった。 同じ頃、ふたりはボートを始める。

初頭: 第三回印象派展で「印象派」という名前を名乗るかどうかでドガともめる。結局ドガが折れて名乗ることとなったが、サロンにも参加する者の参加を認めるかどうかも含め、運営方法を巡る意見の対立は大きなしこりとして残った。(参考文献7-1)
1月: モネに100フランを2回渡す。
1月頃: ルードヴィック=ピエットがピサロに「カイユボット氏があなたの絵を二枚購入したときいて嬉しく思います、これであなたも立て直す時間ができたことでしょう。」と書き送る。
1/17: モネはパトロンである出版業者のジョルジュ=シャルパンティエに、サンラザール駅近くのモンセ通り17番地に引越しをすると告げた。
カイユボットはこのモネの借りた2部屋の借り賃を1878年7月まで支払っていた。
1/24: ピサロの「ルーヴシエンヌ」を購入。
カイユボットは「私たちの展覧会に関し問題が生じています。デュラン=リュエルの店舗はすべて、この1年間予約が入っています。……。気を落とさないようにいたしましょう。まだいくつか方法はあります。展覧会は開けます。開かなければなりません…。(参考文献8,P277)」と第三回印象派展の実現は難しいが、うまくいくことを確信している旨をピサロに手紙を送る。(1877年1月24日付のピサロ宛の手紙より)
3月: モネに430フラン渡す。
4月頭: ビニョンにあるカフェ=リシュでのディナーに印象派が集う。
4/8付の「Le Vieux Parisien」には「カイユボットからティヨそしてマダム=ピエット、モネ、ピサロ、それにラミーらまで忘れることなく20人の印象派たちが集まった。その中にはたった二人だけれども非常に純粋な賞賛者たちと、主催者である文章の印象派、エミール=ゾラが紛れ込んでいた(参加していた)。」と記事が出る。
4月: 4月4日〜30日、第三回印象派展に出品。
カイユボットは作品の陳列委員を務め、アパルトマンの家主と知り合いで、使用料を前払いしていた。彼の作品は第一室、アパルトマンの中心の広間の隣の部屋に展示された。(参考文献8)
4月: モネに250フラン渡す。
4/30: 競売会に落札者として参加。(参考文献8,P282)
5月: モネの「Tuileries(テュイルリー公園のエスキース)」を購入。
5/28: ピサロ、ルノワール、シスレーとカイユボットでパリのオテル・ドゥルオで画家自身の手による絵画のオークションを企画する。
カイユボットの出品作品は「No.1:床の鉋かけ」「No.2:床の鉋かけ(別バージョン)」「No.3:ハウスペインター」「No.4:モンソーの広場の小道」。
ギュスターヴ=ジェフロワによると、「床の鉋かけ」は655フランで、ハウスペインターは301フランで買い手がついた。
だがこの買い手というのはカイユボット自身であったに違いない。なぜなら、カイユボットが亡くなったときこれらの作品は彼のアトリエに残っていたからだ。
6月: モネに140フラン渡す。
7/18: 年率5%で30,000フラン借り入れする。
8/10: ルノワールがアルフォンス=ルグランと白淡色のマクリーンセメント(接合剤)の製造販売を行うという10年来の共同事業を行っていたのだが、カイユボットが期間限定でその事業加わる。オフィスはラフィット通り22-2番地にあり、事業内容は画家が使用するのに適した材料の開発であった。デュラン=リュエルと関係がある販売業者と取引があった。
8/31: モネに50フラン渡す。
9月: モネに200フラン渡す。
10月: モネに110フラン渡し、モネのために60フランの額縁を買う。
12月: モネに20フラン渡す。
1878 30
1/3: モネに5フラン渡す。
1/14: モネに100フラン渡す。
1月末: モネに150フラン渡す。
1/28: ピサロに、毎月50フランの送金ができないかわりに750フラン送る。
パリ万博の開催にあわせて6/1にまた印象派展を開こうという計画が持ち上がったがその後、カイユボットはそのための援助をとりやめた。
カイユボットは万博には出展しなかった。(カイユボットの欠席についてはカミーユ=ルモニエールが書いたブリュッセルの1878/8/31付けの「L′Artiste」に記されている。)
どちらにしてもカイユボットは万博におそらく母セレステとともに訪れた。母セレステはそこで花瓶を購入し、カイユボットは彼女の死後にその支払いをした。
3月〜 3/3, 3/12, 5/26, 6/24、シャンフリー農場に隣接した土地を250,000フラン以上で売却。そのお金は以降数年にわたって分割で支払われた。
3/10: モネから二枚のエスキース(chemin de fer)を300フラン、panneau decoratifを600フラン、サンラザール駅を685フランで購入。しかしこの支払いの一部は前払いで払われており、モネがこのとき受け取ったのはそれぞれの作品について50フランずつであった。
モネに10フラン渡す。
3/16: 週刊「Le Yacht」が創刊される。雑誌のうたい文句は「芸術的、文学的、科学的な楽しみのヨットの定期刊行物・土曜発売」であった。この雑誌は1860年代に休刊していたのだが、その復刊にはカイユボット兄弟の尽力があったようだ。1910年Le Yachtに掲載された弟マルシャルの死亡記事によると、カイユボットの逝去時、Le Yachtの株を保有していたということだ。彼らのヨットでの功績は1879年から掲載された。 雑誌には定期的に芸術に関するコーナーが掲載されていたがカイユボットは一度も「画家」として紹介されなかったようだ。
3/22: モネに更に10フラン渡す。
4/1: ルノワールのマクリーンセメントの事業が失敗。カイユボットがこのベンチャー事業に出資した金額は30,000フランであった。カイユボットが亡くなったときアルフォンス=ルグランの負債は15000フランもの払いきれないであろう負債をおっていた。
4月: モネに40フラン渡す。
5月: モネに更に40フラン渡す。
6月: 6/5、6/6 、パリの実業家エルネスト=オシュデが破産。その後、彼のコレクションが売りに出された。印象派にとって不運なことに、彼らの作品はごくわずかな金額で散り散りになってしまった。その中にカイユボットの作品はなかった。
オシュデ氏はイエールに近いモンジェロンに土地を持っておりそこでモネやマネといった友人達をもてなしていたので、おそらくカイユボットはオシュデ氏のことを知っていただろうが、カイユボットは売りに出されたコレクションを購入しなかった。
7月: モネがモンセ通りから引っ越すお金を支払い、さらに100フラン渡した。
10/20: 年金生活を送っていた母セレステがミロメニル77番地にて58歳で亡くなる。
カイユボットと家主である弟マルシャルはそこに住み続けた。
11/13: セザンヌがレスタックからカイユボットの母の死に対するお悔やみの手紙を出し、その中でセザンヌは9ヶ月ほど前にパリを離れたと書いている。
12/9: モネがジョルジュ=シャルパンティエ氏に「今自分はパリのヴァンティミーユ通り20番地の二棟続きのアパートの一階と左の棟に住んでいる」と書き送った。1878年10月から1881年秋まで家賃はカイユボットが支払っていた。ここは1876年頃、カイユボットのアトリエとして使用されていた。(地図
12/11: 父マルシャルと、弟ルネ、母セレステの遺産が支払われる。ギュスターヴの相続分は700,000フラン以上の現金と、貸付金、年金、株と不動産であった。賃貸収入だけでも彼が死ぬまで毎年約30,000フラン入ってきていた。その金額は裕福な暮らしをするのには充分な額だった。カイユボット兄弟はシャンフルーリ農場だけでなくミロメニルの邸宅と、イエールの土地と設備を共同で所有した。
12/24: モネにかわってル=バリカン廷吏に15フランを支払う。これは1867年1月16日に判決が下されていたクールセル-モネ訴訟のお金だと思われる。カイユボットはこれ以前にもモネの1877年、1878年の債務を代わりに支払っている。
この年、ジャン=ベローがカイユボット邸でのパーティの様子を描いた。
1879 31 カイユボットはこの年からオスマン大通り31番地に住み始める。(地図
土地登記簿ではこの住所について調べられていないので、このバルコニーのあるアパートの詳細は不明だ。このアパートはオスマン大通りとグリュック通りの角地にあり、上から二番目の階にギュスターヴと弟マルシャルで住んでいた。
この建物が1909年からソシエテ・ジェネラル(銀行&証券会社)の本部として使われたときは、この建物の上方の階は彼らが使っていた当時のまま残っていた。

イエールの不動産を売却。この取引の正確な日付は不明(記録が実際の売却より2〜3年遅れるのはこの当時よくあることだった。)だが、登記簿によるとカイユボット家から不動産と権利が新しいオーナーのピエール=フレデリック=デュボワに渡ったのは1881年のことだった。

この年頃からだんだん絵を描かなくなってきた。

年初(?): 批評家兼コレクターのテオドール=デュレ氏にロンドンに出発すると手紙を書く。その旅行については、ベルオという研究家が発表しているのだが、詳しいことは分かっていない。ベルオはその手紙の書かれた年が「1877年(?、原文ママ)」「2グループとヴァンティミーユ20番地に4時に集合」と読めるとしている。彼女はこの旅行に出かけたのは、この住所が借りられていた1878年後半〜1879年初頭より早くない」と述べているが、実際はこの旅行はそれよりずっと遅かった可能性もある。なぜならこの二棟続きのアパートは1878年〜1882年4月までモネに貸していたからだ。

ロンドンから戻ったカイユボットはピサロ、ドガ、マネ、モネ、ルノワールとシスレーを夕食に招待し、次の印象派展について計画した。 ベルオはこの夕食会が「1877年」に開催されたとしているが、ここでは唯一文書でのロンドン旅行の記録がある1879年の項目に載せておく。カイユボットは何回かロンドンを訪れたとも推測できる。
1月: モネの「effet de neige(雪景色)」を200フランで購入。代金は2月と3月に100フランずつ支払う。
2/3: アルフレッドを含むカイユボット3兄弟は公証人ポレニックにミロメニルの邸宅を売るように指示する。オークションの日付は5/11で、公開価格は500,000フランだったが、実際は450,000フランで落札された。6/3に落札者のジャン=バティスト=グラヴィエール氏に権利が渡った。
2/19: カイユボット3兄弟は叔父のシャルル夫妻に終身年金の形で300,000フランの生前贈与を行う。
カイユボットは、来るべき印象派展示の準備の中で、特にモネに熱心に参加するように働きかけている。

「そのようにうんざりしないで。制作中でないのならパリに来なさい。収集可能な全ての絵を集めるだけの時間はあります。コレクターのベリオの面倒は見ます。もし額縁がドラポーに無いのならば用意します。あなたを助ける全てのことはします。すぐに作品リストを私に送るか、それよりも(グループのマネージャーとして働いている美術商の)ルピック通り54番地のポルティエに送って下さい。出来るだけ多くの君の作品を。私は君が素晴らしい展示をすると信じているよ。君はいつもそうだから。君は「おっかない」とうんざりしているだろうね。でももし君が望むのなら1週間君のために費やすよ。(日付無し)
4月: 4月10日〜5月11日、第四回印象派展に出品。
モネに展覧会の最初のレビューを送り、そして好意的な記事を書いてくれたデュランティのために新聞にイラストを描いてくれないかと頼む。
4/10: ヴェタイユにいるモネ宛に「私たちは救われました。今日の午後五時までで、収入は四〇〇フラン以上になりました。最悪だった二年前の初日は、三五〇フラン以下だったというのに…ちょっとおかしな状況があったことをあえて伝えます。例えば、二七枚だか三〇枚の絵を出展したドガの絵は、今朝は八枚になっていました。彼はとても腹立たしい人ですが、やはり、偉大な才能があることは認めざるをえません。」と送る。(参考文献8,P303・1879年4月10日、モネ宛の手紙より)
4/17: 批評家のモンジョワィウに好意的な印象派展の記事を書いてくれたことに感謝したが、彼がカサットの作品について触れなかったことと、セザンヌ、ルノワール、シスレーとモリゾが今年は欠席したことについて触れなかったことは残念だといった。
4月: モネに2,500フラン、さらに同月中に400フランを送る。
5/1: モネに印象派展のために2枚のキャンバスを送ることを約束する。そして、そのうちの一枚はすでにカサットが買うことにほぼなったとしらせた。
また手紙の中で「売り上げは引き続き好調です。現段階で、およそ一万五〇〇フランです。人々はといえばーいつも明るい雰囲気で、私たちの絵を楽しんでいます。」(参考文献8,P303・1879年5月1日付けのモネ宛の手紙より)と書いている。
5月: 印象派展終了後、モネの絵が戻ってきたのをうけてカイユボットは最終売り上げを現金化した。「我々の利益は439フランで、一人あたり50フラン。15,400人以上の客が訪れた。売り上げは上々だ。」
カイユボットはサロンに出品されたルノワールの作品とモネの「ボート遊び」を褒めた。
6月: モネの「ヴェタイユ」を100フランで購入。
6月: 6〜7日、カイユボットの「6階からみたパリの通り(冬の霧)」がオテル=デュルオので売りに出される(カタログNo.60,50×60cm)。株式仲買人でコレクターのアーネスト=メイ氏が購入し、その売り上げは画家の故ルイ=ムーシェの妻と娘に渡された。
6/17: ピサロが400フランを頼んだのに対して、1,000フランを都合し、そのお金は8日以内に届けられた。ピサロへの手紙の中で地方へ経つことと創作意欲があるのに天気に邪魔されていると6/17日(木)の朝、書く。
7月: モネに1,000フラン都合する。
7月: L'Artisteは、「ルノワールの“ムーラン=ド=ラ=ギャレットの舞踏会”はカイユボット氏によって購入された。彼はその絵をブーグローのヴィーナスとは決して交換しないだろう。」と ちょうどその頃15,000フランで政府に買い上げられたブーグローの「ヴィーナスの誕生」を引き合いに出して記事にした。
7/18: パリのサン=ジョルジュ教会の聖具室のためにカイユボット兄弟が財団が創設。プライベートな協定は1/6に結ばれていた。その教会のミサでカイユボット家の故人が追悼されていた。
8月: モネに200フラン渡す。
9/17: モネに500フラン渡す。
10月: モネに700フラン渡す。
12月: モネに100フラン渡す。
1880 32
1/24: 新聞Le Gauloisが、2/1にブラックモン、カイユボット、カサット、ドガ、フォラン、 ピサロ、ラファエリ、ルアールが「Le Jour et la Nuit(昼と夜)」を創刊と報じる。第四回印象派展終了後に書かれたブラックモンの手紙によると、ドガが「新聞のことをカイユボットに話した。カイユボットは我々のための保証金の用意は出来ている。」そうだ。
2/24: モネに100フラン都合する。
3月末: ドガが第五回印象派展を4/1に開催すると決定する。ドガはブラックモン宛の手紙に「告知ポスターは明日か、月曜にできるだろう。緑地に明るい赤色の文字だ。カイユボットと参加者の名前を入れるかどうかで随分もめた。私は降参して、名前を入れることを許さなければならなかった。こんな一覧リストはいつになったらやめるのだろうか?」と書いている。(1880年3月、ドガからブラックモン宛の手紙より)
4月: 4月1日〜30日、第五回印象派展に出品。
4月: モネの「Le Verger(Printemps)」を200フランで購入。
8/8: モネに200フラン渡す。
8月: ヴィレ=シュル=メールで絵を描く。
10月: モネに240フラン渡す。
11/10: モネはカイユボットに200フランを返し、また300フランを貰う。
12月: モネに100フラン渡す。
年末: ドガはブラックモン宛に自分が次の展覧会の幹事とソリがあわないことを書く。「理論と実践は怠慢とカイユボットの頑固さの前には意味がありません。」
1881 33 カイユボットはますますセーリングにのめり込んでいく。

1月: モネに500フラン渡す。
1/24: ピサロに手紙で不満をぶつける。
「ドガは私たちとあいません。彼はすばらしい才能を持っている、それは事実です。私は最初の彼の賞賛者だと公言していました。しかし、もう止めにします。」(手紙の全容はこちらを参照のこと)(1881年1月24日付けのピサロ宛の手紙より)
しかし、ピサロは28日付の返信でドガの肩を持ち、不本意ながら、カイユボットが印象派展に戻って来てほしかったルノワールとモネが出品しないことを認めた。
1月: ピサロ宛に「私はどうしたらいいのかわかりません。今年は展覧会ができると思いませんが、去年のようなものを繰り返したくないことだけは確かです」と送る。(参考文献8,P323・1881年1月、ピサロ宛の手紙より)
2月: モネに100フラン渡す。
3月: 3月27日〜4月8日、国防義勇軍歩兵隊の第十九連隊での軍務をつとめる。
4月: 4月2日〜5月1日、第六回印象派展開催(カイユボットは不参加)
5/7: カイユボットと弟マルシャルはアルジャントゥイユの対岸、セーヌ川岸のプティ=ジャンヌヴィリエに土地を購入。広さは2641平米。アルジャントゥイユはパリ帆船協会の活動の中心地だった。
「Revue horticole : journal d'horticulture pratique」(園芸雑誌:便利な園芸新聞)の定期購読を始める。
5/14: ボヘミアンミュージシャンのアーネスト=カバネルのために「Paysage(小道)」をオテル=デュルオのオークションに出品。(カタログNo.5)
冬: ルアールにドガがラファエリと縁を切るように説得してもらう約束をするが、その説得は失敗に終わる。「ドガはそのように頼まれたという理由だけで、もはやラファエリをあきらめそうにありません。頼まれれば頼まれるほど、絶対にあきらめないでしょう」とピサロ宛に手紙を送る。(参考文献8, P32・1881〜1882年冬、ピサロ宛の手紙より)
年末(?): ドガを除いた志を同じくする少人数(ピサロ、モネ、ルノワール、セザンヌ、シスレー、ベルト=モリゾ、ゴーギャン、カイユボット自身、そしてカサット)のグループ展を開くことを希望する。(参考文献8,P333)
1882 34 弟マルシャルとプティ=ジャンヌヴィリエに二件の屋敷を建て、パリを離れそこで暮らし始める。地図)。

印象派の結束の衰えは続き、カイユボットを除外しようという話さえあった。 特にゴーギャンは反感を隠すことはなく、カイユボットはついにピサロに「もう嫌になりました。私は手を引くことにします…。その方がよいでしょう。」と書き送る。(2月中旬、ピサロ宛の手紙より)

2/24頃: ピサロはモネに手紙を送る。「ここ2〜3週間我々の友人カイユボットと協力して、グループが出来る限り同じような構成でできるように意見を一致させるのにものすごく努力をしました。デュラン=リュエル氏があなたに送った手紙に間違いがあったことは明らかです。あなたは想像力があるので分かると思いますが、我々はカイユボットと手を切るつもりは全くありません。...さらにいえばカイユボットだってずっとそう思っている。彼は我々といてくれる。彼は1つだけ条件を挙げました。それはあなたが参加することです....。君の作品の展示位置に関しての希望は全て叶えよう。期待して貰っていい。私とカイユボットはそこにいるでしょう。」
3月: 3月1日〜31日、第七回印象派展に出品。
この印象派展にモネの「赤い菊(No.69)」を貸し出す。モネはデュラン=リュエル氏に「この絵はとてもよいです。」と書き送り、カイユボットにこの絵を貸してくれるように頼んでもらった。
ウジェーヌが展覧会の感想について「カイユボットは、インクのような青い色の人物像を何点か描いていますが、極めて退屈です。風景を描いた小さなパステル数点はなかなかすばらしいです。」とモリゾ宛に送っている。(参考文献8,P336・1882年3月、ウジェーヌからベルト=モリゾ宛の手紙より)
3月中旬: モネとルノワールに展覧会の純損益は2000フランになるでしょう、と書き送る。
3/12: ピサロがポントワーズから彼のパトロンのテオドール=デュレに手紙を書く「私たちの展示をお気に召して頂けて非常に満足しています。全ての成功は並ではないことだと思います。たった二日の間にモネ、ルノワール、シスレー、モリゾ、そしてカイユボットが来てくれたのは、まったく驚くべきことです。」
4/15: モネがアリス=オシュデに手紙を送る「カイユボットに(モネがカイユボットから借りていた)ヴァンティミーユ通り20番地の家から作品を移動させるようにいわれた。」カイユボットは初めに左の棟の一階を借り、そしてその後右の棟を借りた。おそらく1881年末頃から1882年までカイユボットはここをモネとシェアしていた。
夏: トゥルヴィーユに滞在しいくつか作品を描く。
1883 35
4月: 1〜25日、自身のコレクションの中からルノワールの「読書(No.23)」「ブランコ(No.28)」「ムーラン=ド=ラ=ギャレット(No.35) 「風景(No.56)」「バラ色のマロニエ(No.68)」をデュラン=リュエルが計画したマドレーヌ大通り9番地で開催される回顧展に貸し出した。
5月: ジョルジュ=シャルパンティエによって、ジョリス=カール=ユイスマンスが書いた「1880年の独立派展」がラール・モダンの中の記事として出版される。その文章はカイユボットに非常に好意的だった。そのことに関連してピサロが5/13に息子のルシアン宛に「すべての批評家と同じように、自然主義をいいわけにして彼は文学人として判断し、絵画の主題しかみていない。彼はモネよりカイユボットを上にみている。なぜか?なぜなら彼は《床の鉋かけ》《オースマン》などを描いたからだ。それならドラクロワは何もないか?彼の描いたルーブルのアポロンの天井画はどうだ?」と書き送り、18日にルシアンから「私も、彼がシャヴァンヌには厳しくカイユボットに甘すぎる思いました。この謎は『彼らはボート仲間で、「漕ぎ手」はお互いに気を配っているのだ』と説明がつくでしょう」と返事があった。
6/1: 国防領土予備軍に従事。
夏: ルノワールがプティ=ジャンヌヴィリエの邸宅に遊びに来てシャルロットの絵を描く
夏: トゥルヴィーユに滞在。トゥルヴィーユ、カブルグ、アルジャントゥイユを船旅する。
秋(?): ピサロがモネに「私は本当に困窮していて、赤貧に陥った。ありがたいことにカイユボットがこの夏の厳しい状況から救ってくれた。きっと彼がいなかったら、私の売り上げは難破状態だったでしょう。」と打ち明ける。
11/20: 遺言補足を作成
1884 36
1月: エコール=デ=ボザールが尊敬すべき画家として開催した「エドワール=マネ作品の展覧会」に「クロケットゲーム(No.73)(実際のタイトルはクローケーゲーム)」を貸し出す。マネは1883年の4月30日に亡くなっている。
1/29 モネがイタリアのボルディゲーラからアリス=オシュデに手紙を出す。「今晩カイユボットに手紙を書きます。ここへの最初の旅行以来消息を伝えていないので彼は私のことをきっとすごく風変わりだと思っているでしょう。日曜日にアルジャントゥイユに着くように土曜日に鴨を送る予定です。彼は駅でそれを受け取るだけでよいのです。」
2月: 4〜5日、マネのための競売会が開かれ、「コーラスの習作(No.54)32×41」を200フラン、「バルコニー(No.2)171×125」を3000フランで購入。それは競売会で最高の落札額だった。
その後この競売会で作品を買ったことについてカイユボットからイタリアのボルディゲーラにいるモネに手紙を出す。
2/16: ロンドンの出版会社フィラテリックレコードの編集者に手紙を出す。その内容が「手紙、非・現実、パラグアイ、追加税 5」という見出しで2月に出版される。
2/22: モネがイタリアのボルディゲーラからアリス=オシュデに手紙を出す。「今日カイユボットから手紙を受けとった。彼にはアルジャントゥイユのフルネイズ(シャトーレストラン)までお金を送った。カイユボットは鴨のお礼をしなかったことを謝っていた。美しい鴨で好評だった。」
7月 ルーアンとルアーブルに向けて船旅をしモネを訪れる。モネは「ルーアンから到着。そこでカイユボットと一緒に彼のボートに着いていった」とデュラン=リュエルに手紙を書く。
7/18 トゥルーヴィルからモネにギュスターヴ=フロベルの文章について以下の内容の長い手紙を送る。
ギュスターヴ=フロベルトの記事をちょうど読み終わったところで、フロベルトの悲観論が自分の気分を落胆させたこと、ドラクロワとミレーについての賞賛、ミレーを人間の愚かさに敢然と立ち向かう「オリュンポスの神々のように優れた人」と評すがドガについてはそうは思わないこと、「彼はその点ではひどく不十分だ」
10/9: ルーブル美術館で模写したウスタシュ・ル・シュウールの作品のスケッチを完成させる。
秋: 10月25日〜11月16日、シェランセとヴェタイユに旅行するが、レガッタのためにアルジャントゥイユに滞在する。
12月: ピサロにマネのための祝宴に出席してほしいと手紙を書く。この晩餐会は翌年1月5日、クリシー通りのレストラン、ラトゥイーユで開催された。
1885 37
2/24: モネが手紙でエミール=ゾラにゾラ脚本の「Henriette Maréchal」のチケット二枚を頼む。そのチケットはモネがカイユボットのために手配し喜んでお金を払うと約束したものだった。
3月: 3/21に生まれたルノワールとアリーヌ=シャリゴの長男ピエールのゴッドファーザーとなる。
3/20: 異母兄アルフレッドがパリのノートル=ダム=ド=ロレット教会の教皇代理となる。
5月: ヴェタイユに旅行。
9月: 再びヴェタイユに旅行。
11月: カイユボット兄弟によるメキシコ切手に関する最初の論文がフィラテリックレコード7,82で発表される。その論文はメキシコ切手に関しての草分け的な論文であり、ブリュッセルのタンブレポストで以前に発表されたものを校正したものだった。彼らの論文はフィラテリックレコードでシリーズ化され1885年12月、1886年3、4、5、6月にも掲載された。
12月: モネがエトレタからアリス=オシュデにデュラン=リュエルのライバルのギャラリー・ジョルジュ・プチの展覧会に参加すべきかどうか印象派の間で議論があったと書き送った。ジョルジュ=プティは「今朝カイユボットから次の水曜にそちらに行くという手紙を受け取った。恐らく彼はピサロの手紙を〝救出〟しに来るのだろうが、そのことで困っている。私はその日いるかどうかわからないと返事をします」と書いている。
12月: 下旬、モネがピサロに「今ちょうどカイユボットが訪ねてきて、展覧会について話をした」と書き送った。
1886 38
4月: 4月10日〜5月10日と5月25日、デュラン=リュエルがニューヨークで開いた「パリの印象派による油彩画とパステル作品」にいくつかの作品を展示。
「紳士の肖像[500フラン](No.3)」「床の鉋かけ[3,300フラン](No.30)」「雪模様[600フラン](No.114)」「風景ー黄色とバラ色の習作[500フラン](No.136)」「庭の子供[400フラン](No.146)」「ボートこぎ[2,000フラン](No.186)」「花咲く木[300フラン](No.191)」「窓辺[1,000フラン](No.230)」「ボートをこぐ人[1,750フラン](No.272)」
※記載の価格は、注釈カタログに暗号で示されていて、キャロライン=ゴッドフロワ=デュラン=リュエルによって伝えられているもの。
5月: 5月15日〜6月15日、最後となる第八回印象派展開催(カイユボットは不参加)
6月: おそらく、プティ=ジャンヌヴィリエにできた新しい艇庫のための資金を融資。その艇庫はそれ以後カイユボットのボートを造ることになっていた。
7〜8月: ヴェタイユに滞在する。
8〜9月: ロワール川流域のブロワ、ショーモンを旅行。
10/11: ベル=イルに滞在しているモネが急いでパイプを送ってほしいとカイユボットに頼む。
1887 39
5〜6月: 5/8〜6/8、モネの「インテリア」をパリのギャラリー・ジョルジュ・プチで開催された「国際的な画家と彫刻家展覧会」に貸し出す。
5/24: モーの公証人アルベルト=クルティエの下、プティ=ジャンヌヴィリエに弟マルシャルの分の土地と建物を購入。
6/7: 弟マルシャルがパリのサン=ポール=サン=ルイ教会でマリー=ミノレと結婚。説教の中で神父で異母兄のアルフレッドがイエールでの思い出を話す。
8月: モーの公証人アルベルト=クルティエの下、プティ=ジャンヌヴィリエの土地と建物を購入。
9/4: モネがカイユボットにプラムを送り、自分の作品に不満をのべ、シスレーに会うことを断る。
9/15: ヴェタイユで作品を制作。
1888 40 カイユボットはプティ=ジャンヌヴィリエに新しい三棟(スタジオ、鶏小屋、住宅)を建てる。
この頃にはほとんどプティ=ジャンヌヴィリエで過ごすようになっていた。
2月: モネが作品の価格が下落しすぎるのを防ぐために競売に参加してくれるようにカイユボットに頼もうかと考えていることをアリス=オシュデに書き送る。
2月: ブリュッセルの二十人会の第五回展覧会に参加。主要参加者はギヨーマンシニャックロートレックウィッスラー
展示作品は「1: 風呂場の男」「2: J.D氏の肖像」「3: R.G氏の肖像」「4: E.J.F氏の肖像」「5: ひまわりの習作」「6: セーヌ川の支流」「7: 花咲く桜の木」「8: 静物」
「風呂場の男(カタログNo.83)」はカタログには記載されたが実際には展示されなかった。ベルギーでのカイユボットについてのわずかなレビューは彼について「古い印象派」だと表現し、カイユボットの作品に好意的ではなかった。
4/20: 弟マルシャルの息子、ジャンが生まれる。
5/6: ジャンヌヴィリエの町議員に選出される。地図
6/7: 教育とフェスティバルに関する委員となる。
5〜6月: 5/25〜6/25、カイユボットはパリのデュラン=リュエルの画廊のグループ展に参加。参加作品は「庭(No.8)」「アルジャントゥイユに向かう支流(No.12)」 「黄色とバラ色の田園(No.62)」「ボート乗り(No.63)」「黄色の田園(No.64)」「水辺にて(No.70)」
その頃アルルにいたゴッホが弟であり美術商のテオに「その展覧会にはカイユボット氏のいくつかの作品が展示されるらしい。私は今まで彼の作品を見たことがないのだがどんな感じのものなのか教えてほしい」と書き送る。
9月: ルノワールがプティ=ジャンヌヴィリエのカイユボット邸に滞在。
12/21: 町議院議員としてプティ=ジャンヌヴィリエの街灯点灯夫の給料をアップさせる。
1889 41
6/30: 兵役の義務から完全に解放される。
11/5: 遺言補足を作成
1890 42
2/7: アルマンド=ファリエールにエコール・デ・ボザールの教育監督大臣について手紙を送る。
2/18: マネ夫人からマネの「オランピア」を購入し、それを国に寄付するためにモネから1000フランの募金を頼まれる。
3/27: モネが4/3(木)、カフェ=リシュでのいつもの印象派とその仲間の夕食会(毎月第一木曜日に開かれており、ここの借り賃はカイユボットが支払っていた。)を行う前にカイユボット邸で昼食を食べようと提案する。
5/12: モネがカイユボットにダリアを受け取ったこと、シスレーに関するニュース、ルノアールが受勲を拒否したことに自分は賛成だという内容の手紙を送る。
5/28: モンジェロンで弟マルシャルの娘、ジュヌヴィエーヴが生まれる。
6/2: プティ=ジャンヌヴィリエの電報サービスをアルジャントゥイユ郵便局と提携させて、サービス改善をしようという提案に関して、プティ=ジャンヌヴィリエ町議会審議に参加。
1891 43 1891年のプティ=ジャンヌヴィリエの国勢調査の記録
 ギュスターヴ=カイユボット:42歳、世帯主、画家
 シャルロット=ベルティエ:28歳、友人
 マリー=アレクサンドル:48歳、コック、お手伝い
 アンジェル=アレクサンドル:17歳、お手伝い
 ジョセフ=ケルブラ:41歳、水夫
 マリー=ゲムヌル:38歳、メイド
 ギヨーム=ケルブラ:14歳
 ジェラルド=ピエール:33歳、水夫

2/4: モネは批評家のギュスターヴ=ジェフロワに「明日パリに行きます。前にあなたに話した夕刻のディナーはベリオとカイユボットらです。」と書き送る。
3月頭: モネはギュスターヴ=ジェフロワと逢う約束をする。その手紙の中の一節、
「木曜日、ベリオとカイユボットと食事をするつもりです。」
3/30: モネがジェフロワに「印象派のディナーがあるので木曜に行きます。」と知らせる。
4/4: カイユボットとベル・アミ号のオーナーである作家のガイ=ド=モーパッサンが海軍会議の役割に関係する嘆願書に連帯署名をする。
5/24: モネがジェフロワに芝居のチケットを頼み、加えて「私はカイユボットに電報を打つのを待っています」と書き送る。
7/23: 国立園芸協会の会合でポール=アリオが、カイユボットのプティ=ジャンヌヴィリエの邸宅でオニゲシとハカマオニゲシの交雑受精から生じる完全一連の多年生芥子を賞賛する会を開催したと述べた。
8/24: モネがジヴェルニーからプラムを送り、作家兼批評家オクターヴ=ミルボーとの会うことについて触れた。オクターヴはガーデニング、ボート、絵画に対する考え方でモネやカイユボットと気があう人物だった。
9/14: ジヴェルニーのモネに、制作活動ができる安定したボートを貸してくれるように頼まれる。
秋: 9/29〜10/3、ルノワール夫妻がプティ=ジャンヌヴィリエのカイユボット邸に滞在。
12/28: 町議員の最後の活動として、道路監視員に退職金を与える案に賛成した。
1892 44
1/30: モネがジヴェルニーからギュスターヴ=ジェフロワに「現在の企画があるからパリにそんなに長く滞在していたくない。カイユボットに夕食会を火曜日に変更してもらえるように手紙を書いています」と書き送る。
2/19: 異母兄アルフレッドが司祭を務めるノートル=ダム=ド=ロレット教会でピエール=カミーユ=ドレユの結婚式が行われる。
3/29: 同じくボート好きのシニャックに「シニャックさん、あなたを喜ばすことができてとても嬉しいです。ヨット協会のあなたのスポンサーに私のことを考えてくれたことを感謝しています。この新しい協会が我々の友好を復活させる機会となるでしょう。あなたの忠実なG.Caillebotte」と書き送る。
5月: 自身のコレクションの中から、ルノワールの「ムーラン=ド=ラ=ギャレット(No.10)」「トルソー、太陽の効果(No.11)」「ブランコ(No.23)」「読書(No.53)」をパリのデュラン=リュエルの画廊で開かれる展覧会に貸し出す。
アルセーヌ=アレクサンドルはカタログの序文の中でルノワールのことを「1876年から1882年の間は理解されず嘲笑すらもされていた、素晴らしい画家」と呼んだ。
5/6: プティ=ジャンヌヴィリエから出した手紙の中で、結婚式に出席するためにパリ行くつもりなのでカメラマンをよこさないでと記者に頼む(手紙の相手は不明)。
ルノワールの展覧会にあわせて、ルノワール主催のカフェ=リシュでの夕食会に参加。ベリオ、デュレ、マラルメ、モネも参加。
7月: 10日と16日、ジヴェルニーでモネとアリス=オシュデの婚姻の立会人となる。
1893 45
3/31: ベリオに、モネの希望で4月の第二木曜日は彼と夕食の予定だと書き送る。
11/24: ベリオにモネのリクエストで印象派の夕食会を11/30に延期することにした、と書き送る。
1894 -
1/3: モネがジヴェルニーから、ギュスターヴ=ジェフロワに「夕刻に印象派の夕食会がカフェ=リシュで開かれる」と書き送る。
1月下旬か2月の初旬、プティ=ジャンヌヴィリエの庭で作業中に倒れる。
2/21: カイユボット、プティ=ジャンヌヴィリエの家で死去。死因はおそらく脳溢血だが、いくつかの死亡記事には「長期間の病気により」と書かれている。
2/26: カイユボットの葬儀が異母兄アルフレッドが司祭を務めるノートル=ダム=ド=ロレット教会で行われる。参列客は非常に多く、彼に世話になった友人たちの多くは葬儀の間、教会の玄関口に残らなければならなかった。プティ=ジャンヌヴィリエからきた4人の水夫が棺を運び、パリのペール=ラシェーズ(地図)に埋葬された。
3/1: ピサロが息子のリュシアンに「我々は誠実で献身的な友人のひとりを亡くした。カイユボットは突然脳性麻痺で急死した。彼は良き人であり、寛大であり、更に悪いことに絵の才能まであった、哀悼すべき人です。」と書き送る。
3/11: ルノワールと弟マルシャルは国に遺産を申告。そしてルノワールは遺産遺言執行人として、美術学校の校長アンリ=ルージョンにドガ、カサット、マネ、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、ミレイガヴァルニーのデッサンなどからなるカイユボットの遺産約60点を報告。
3/15: モネはギュスターヴ=ジェフロワにカイユボットの死に対する悲しみを手紙で送り、その中で「ルノワールにカイユボットのことで呼ばれたので、土曜日は一日中パリにいるつもりです。」と記す。
3/19: 美術省の委員がカイユボットの遺贈の内容を調査。作品はクリシー大通り11番地のルノワールのアトリエに一時保管される。
3/20: リュクサンブールの学芸員、レオンス=ベネディトは国立美術館の学芸委員会に遺贈の受け入れを認めさせることに成功。しかしそれはコレクションのすべてを展示させるというものではなかった。全てを展示するということは必然的に美術館を拡張しないといけなくなるからでもある。
ルノワールとマルシャルは全作品展示は譲れないとし、報道などを巻き込み論争に発展し、この論争はほぼ1年間つづいた。(カイユボット事件
6月: 6/4〜16、カイユボットの回顧展がデュラン=リュエルのギャラリーで開かれる(ラフィット通り16番地/プルティエ通り11番地)。作品の貸主は遺族とカイユボットの友人であった。カタログには「《床の鉋かけ》はリュクサンブール美術館所有」と記載されていた。ルノワールの提案で遺贈品に加えられたものだった。
1895 -
1896 -
2/26: 政府がカイユボットの遺産管理相続人に許可をだし、40点の作品がリュクサンブールに遺贈され、またそのすべてがリュクサンブール美術館に展示されることとなった。カイユボットの死からほぼ2年後のことである。
40点のうちミレイの2枚のデッサンはルーブル美術館への展示が許可されたため、リュクサンブール美術館には展示されなかった。
残りの作品はマルシャルの手に残される。1904年と1908年に政府に寄贈を再提案するが断られる。ついに1928年に政府が受け取りたいと申し出た時、マルシャルの未亡人はそれを断った。
1897 -
2/9: カイユボットコレクションコーナーがリュクサンブール美術館の新翼で一般公開される。
フランスが予て所有していたマネの「オランピア」、ルノワールの「ピアノを弾く少女たち」、ベルト=モリゾの「ボールドレスの女性」がコレクションに加わる。
1910 -
1/16: 弟マルシャル死去
5/28: 公証人アルベルトによってプティ=ジャンヌヴィリエの土地と建物が売却された。

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