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ブリヂストン美術館がカイユボットの《イエールの平原》を新所蔵&展示
2015-02-21ランダム表示
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ベル・イルの岩壁、1886
キャンバスに油彩、65×81cm
オルセー美術館(RF2777)
財産目録:クロード=モネによる絵画、海景
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:ベル・イル・シュル・メールを描いたシリーズの中で最も壮大で、最も美しい荒涼とした海岸。メランコリックな贅沢さのすべて、海の人里離れた雄大さ。
遺贈時の名前:ベル・イルの岩壁(Les rochers de Belle-Ile, 1886)
美術館への遺贈:許可★
生涯結婚をしなかったカイユボットでしたが、晩年は恋人ともいえる女性がいたようです。
彼女の名はシャルロット=ベルティエ。
ルノワールが彼女の肖像画を描いています。
おそらく中流家庭の出身だということですが、若い女の人で、カイユボットが亡くなった時、シャルロットはまだ31歳でした。
カイユボットとの年の差。。。14歳・・・がぼーん。
しかし、彼女については謎が多いんです。
まず、シャルロット=ベルティエという名前が本名ではない・・・。
本名はアン=マリー=ハガン。
本名じゃないってなんなのさ。。。
何故カイユボットはシャルロットと呼んでいたのかしら?
いつ頃どうやってカイユボットと出会ったのかも定かではありません。
1883年にはその遺言で彼女に120,000フランを残しているので、それ以前に出会ったといえるでしょう。
プティ=ジャンヌヴィリエに引っ越したのが1882年なので、そこで出会ったのかもしれませんね。
また1889年にプティ=ジャンヌヴィリエのシャルロットに家を残す遺言を残しており、
実際にこれらの遺言は執行されたそうです。
1891年の記録に彼女の名前は記載されており、カイユボット自身も彼女とプティ=ジャンヌヴィリエの庭を一緒に描いた絵を残しています。
シャルロットに関してわかっていることはこれだけです。
カイユボットは何故彼女と結婚しなかったのでしょうか?
結婚という形式が好きではなかったのか、
自分の命がそれほど長くないことがわかっていてしなかったのか、
うーん、まさかシャルロットの素性があやしかったからという訳じゃないですよね・・・?
カイユボットが描いたシャルロット
|ピエール=オーギュスト=ルノワール(Auguste Renoir)|マドモアゼル シャルロット=ベルティエ (Mlle Charlotte Berthier)|1883|ワシントンナショナルギャラリー(National Gallery of Art, Washington, DC)|
バレエ(花形)、1876/77
パステル、58×42cm
オルセー美術館(RF12258)
財産目録:ドガの2枚のパステル画「バレーダンサー」
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:ステージで踊るダンサー、しっかりとしていながら優美で、鳥のように機敏で、花のように自由に片足で立ち、腕をアラベスク風に広げている。
遺贈時の名前:ステージの踊り子(Danseuse sur la scene)
美術館への遺贈:許可★
座るダンサー、1881/83
パステル、62×49cm
オルセー美術館(RF22712)
財産目録:ドガの2枚のパステル画「バレーダンサー」
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:座っているダンサー、練習後、片手を足にのせている
遺贈時の名前:座るダンサー(Danseuse assise se massant le pied gauche, c.1881-83)
美術館への遺贈:許可★
ロココ花瓶の花、c.18786
キャンバスに油彩、73×59cm
ワシントンDC、ナショナルギャラリー(チェスター=デール・コレクション)
財産目録:記載なし
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:花の生けられた白とブルーの花瓶
遺贈時の名前:記載なし
レスタック、1878/80
キャンバスに油彩、59×73cm
オルセー美術館(RF2761)
財産目録:金色の額縁にはいったセザンヌの絵画
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:南の海の風景、海は深く青く、岩肌の山々、暑さの中もうろうとした状態で、風景は優れた用心深さと大胆さで構成されている。
遺贈時の名前:レスタック(L’Estaque)
美術館への遺贈:許可★
オーヴェルの農場の庭、1879/80
キャンバスに油彩、65×54cm
オルセー美術館(RF2760)
財産目録:金色の額縁にはいったセザンヌによる風景画
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:赤い屋根の家
遺贈時の名前:オーヴェルの農場の庭(Cour de ferme a Auvers, 1879-83)
美術館への遺贈:許可★
画像など詳細不明
財産目録:セザンヌによるキャンバス「釣り人」
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:人影の集まり、水辺に座ったりもたれかかったりしている
美術館への遺贈:記載なし
水浴者たち、1875/1876
キャンバスに油彩、382×101cm
アメリカ、メリオン、Barnes Foundation
財産目録:金色の額縁にはいったセザンヌによる作品、「水浴者たち」
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:セザンヌによるもっとも有名な作品のひとつ、青色と白色、美しいファイアンス焼きのように堅く彩色されている。裸体と岩と雲の風景。
美術館への遺贈:記載なし
1881/1/24、第六回印象派展の開催前にピサロに宛てて送った長文の手紙です。
カイユボットは印象派展の運営を巡ってはしばしばドガと対立していました。特にドガが引き連れてきたラファエリは、彼の目にはむしろアカデミックに写ったようです。
しかしずいぶんドガのことをたたいていますね(-▼-;)
書いているうちにヒートアップしてしまったのかもしれません・・・。
けど、この手紙を受け取ったピサロは逆にドガの肩を持ちました。
この長ったらしい手紙が原因だったりしてw。カイユボットうざ!とか思って。