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ブリヂストン美術館がカイユボットの《イエールの平原》を新所蔵&展示
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ピサロ|ポントワーズのサン=ドニ丘(赤い屋根、冬の村の片隅)、1877
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英語のwikiを読んでいたら、カイユボットの死について
[Caillebotte died while working in his garden at Petit-Gennevilliers in 1894 of pulmonary congestion ](プティ=ジャンヌヴィリエので庭いじり中に肺鬱血で死亡)
って書いてあった。
なに・・・肺とな? 超・新・事・実 w(@o@)w
しかし若干眉唾ですね。
カイユボットの死因は今のところハッキリしておらず、本によって死因が異なっています。
・Caillebotte apparently become ill while working in his garden.(Kirk Varnedoe)
(カイユボットは庭いじり中に体調を悪くしたらしい。※illが何なのかはふれられず)
・Caillebotte dies at his home in Petit Gennevilliers, probably from a stroke.(Urban Impressionist)
(カイユボットはプティ=ジャンヌヴィリエの家でおそらく卒中で亡くなった)
・Caillebotte meurt le 21 Fevrier apres une courte maladie.(Eric Darragon)
(カイユボットは2月21日急に亡くなった)
・1894年卒中で死(Ingo F. Walther)
・Frappe par une congestion cerebrale(Jean-Jaques Leveque)
(脳出血で)
うううーーーーん。
医学的なことはよくわからないけど、死因は脳卒中、脳溢血、脳出血、、、少なくとも脳に関係する感じかと思っていたけど、ここにきて「肺」ですか・・・・。
何か最新の研究で死因が発表されたのかな・・・?
まぁwikiだから話八割できいておこうかな。(フランスwikiには死因書いてなかったし)
今わかっている範囲で家系図をつくってみました。ページはこちら »
クリックで拡大します。何か変更があれば更新します。
カイユボットは1883年に、1876年の遺言の追加補足をし、あわせてモーに住む友人のアルベルト=クルティエに預けました。
この遺言の中でカイユボットはシャルロット=ベルティエなる女性に遺産の一部を残しました。
この女性はカイユボットの恋人といえる女性ですがあまり詳しいことはわかっていません。
また、ルノワールが借金の心配をしないように気遣っています。
ジェニー=クルティエ(モーで1877年6月20に生まれた)はアルベルトの娘で、カイユボットは彼女の代父でした。
(代父:洗礼式に立会い、神に対する契約の証人となる。名付け親となることもある)
* *
これは私の遺言である。
私の弟ルネが亡くなった1876年に私が作成した遺言は、私の友人アルベルト=クルティエによって発表されるだろう。
1878年の展覧会に関する意志は、当然不必要となったが、私は他の画家が描いた絵を遺贈するという意志の全ての部分を維持する。
ルノワールについては私が彼に貸したお金について決して心配があってはならない、彼の借金から完全に自由にし、彼をレグラント氏との連帯、個別責任から完全に解放するつもりである。
シャルロット=ベルティエ嬢には1万2000フランの終身年金を残す。
この年金は差し押さえられることなく、毎月支払われること。15日ごとなら更にが好ましい。この件をアルベルト=クルティエに一任する。この年金は、すべての相続税とは全く別のものとする。
私のゴッドドーター、ジェニー=クルティエに、2万フランを残す。
そして弟のマルシャルには法的に彼のものになる株に加えて、二人で所有していた不動産と私個人が所有していた不動産を譲る。
1883年11月20日パリにて作成
ちょっと前から日本語のwikiにもカイユボットの項目が登場しましたね!
wiki:ギュスターヴ・カイユボット
なんだか(勝手に)わくわくしてきました(^m^)
【2012/09/08追記】
何年か前から拙サイトもリンク先としてご紹介をいただいております。
誠に光栄ですmm
ムーラン=ド=ラ=ギャレットのダンスパーティ、1876
キャンバスに油彩、131×175cm
パリ、オルセー美術館(RF2740)
財産目録:ルノワールによる絵画「ダンスパーティ」
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:パリの詩情、ダンスと愛と太陽の光に酔いしれる見事なムーラン=ド=ラ=ギャレット
遺贈時の名前:ムーラン=ド=ラ=ギャレット(The Moulin de la Galette)
美術館への遺贈:許可★
この写真はカイユボットと彼の飼い犬「ママ」です。
カイユボットは犬が好きで、彼の絵の中にも色々な犬が時々登場します。
1891年12月、プティジャンヌヴィリエの庭にてマルシャル写す。
そうそう、カイユボットの最初の遺書には、後日談があるのです。
ルノワールがカイユボットの遺産の中から一点好きな絵をもらうことになり、このドガのパステル画、「踊りの稽古/ダンスのレッスン」を選びました。
しかし1898年、こともあろうにルノワールは譲り受けた作品をデュラン=リュエルに売却してしまったのです。
ドガはこのことに大変怒り(私がドガでも怒るなー・・・)、、ドガとルノワールは不仲になったといわれています。
って、あまりこのましくない後日談でしたね。
カイユボットは1876年に遺言を書いています。
それからさらに1883年と1889年に追記をしています。
以下は、最初の遺言を訳したものです。
(ただ、、、全体的にちょっと自信がないんだけど・・・)
* *
私は、1878年に非妥協派もしくは印象派として知られる画家達の展覧会が最高の状態で開かれるために必要な金額が私の財産から使われることを望む。
現在のところその金額を算出するのは難しいが、それは3〜4万フランかそれ以上になるだろう。
この展覧会に加わる画家は、ドガ、モネ、ピサロ、ルノアール、セザンヌ、シスレー、モリゾだ。
私は彼らの名をあげるが、他の人を除外するというわけではない。
私は、国に私の所有する絵を寄付する。
私が望むことはこの遺贈が受け入れられることだ。 屋根裏部屋でも、地方の美術館でもなくリュクサンブール へ、後にルーヴルへ受け入れられることを望む。
この遺言が履行されるのには、市民に受け入れられるまで、どのくらいとはわからないがかなりの時間がかかるだろう。
それは20年か、それ以上かかるかもしれない。それまでは私の弟マルシャルか、彼が達成できなかったときは私の相続人がそれらを管理するものとする。
ルノワールに私の遺言執行人を依頼する。また彼が選ぶ絵を彼にあげるてほしい。ルノワールは重要な執行人となるだろう。
1876年11月3日パリにて複写
* *
【書籍2】に原文(フランス語)と英文の全文がでているので読んでみたい方はそちらをご覧下さいナ。
先日のエントリ「公式サイト/OFFICIEL SITE」で、「カイユボットの作品だと思うけど…」と述べた作品を見つけました〜^^v
←その写真をトリミングしたものです。
これです!
「プティジャンヌヴィリエの庭」(詳しくはこちら)
左下にありますカイユボットのサインは、友人であるルノワールが書いたみたいです。
おもしろいですね。
この絵は1889年に描かれたものなので、この写真が撮られたのはその年以降だということもわかりました。
ふむふむ。
個人的に、とってもとっても満足です!
|ジャン=ベロー(Jean Beraud)|舞踏会|1878|パリ、個人蔵|