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ブリヂストン美術館がカイユボットの《イエールの平原》を新所蔵&展示
2015-02-21ランダム表示
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こんにちは(^-^)/
ブリヂストン美術館での「都市の印象派、日本初の回顧展 カイユボット展」の開催がいよいよ間近に迫り浮き足立っている私です!
(2013/10/10〜12/29)
先日カイユボット展を目前に、BS朝日の「世界の名画 〜美の迷宮への旅〜」で
「もうひとりの印象派 カイユボット」が放送されていたので
それを元に今一度カイユボットについてまとめてみようと思います!
今回の放送は今までの「パトロンとしてのカイユボット」よりも
「画家としてのカイユボット」をフューチャーしていてくれて
カイユボットが評価される時代がきたナ!とひしひしと感じました!!
〜モノローグ〜
カイユボットの代表作のひとつ、「床の鉋かけ(1875)」
※カイユボット展には出展されません。
反り返った床を削って新しくする職人たち。
窓から入る光が床に反射して顔は見えないものの、
細部まで描きこまれたその作品からは
床を削る音や、男達の息遣いまで聴こえてきそうです。
マネ、モネ、ルノワールといった印象派メンバーと共に制作を活動し、
さらに印象派展の開催にも尽力したカイユボットは
このような素晴らしい作品を残しながら
なぜ画家としての正当な評価をされず、忘れ去られてしまったのでしょう?
〜裕福な家庭〜
カイユボットは1848年、裕福な家庭の下に生まれました。
法律を勉強していましたが方向転換し、画家を目指して国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に通います。
しかし彼はアカデミーの古典的な主題や技法に満足できませんでした。
彼が描きたかったのは「現実の世界」だったのです。
「ピアノを弾く若い男(1876)」
カイユボット家の邸宅で、弟のマルシャルをモデルに描かれた作品です。
マルシャルは音楽家でもあり、ピアノは上流階級のたしなみでもありました。
ここでカイユボットはレースのカーテンを通して入る光、
ピアノの黒い硬質な面や鍵盤に反射する光を巧みに捉えています。
またレースやピアノ、布のなどの質感にカイユボットの技術力が伺えます。
またその独特の空間構成もカイユボットの特徴のひとつです。
独特の空間ってどういうこと?と思った方は是非ブリヂストン美術館に出掛けて実際の作品を見てみて下さい。
こればっかりは小さい画像をみていてもわかりません!
ピアノを弾く若い男についてはこちら »
「昼食(1876)」
こちらも同様に邸宅のダイニングで母親と弟のルネをモデルに描いた作品です。
豪華な内装、給仕やクリスタルの食器からカイユボット家の豊かさがわかります。
手前の席が空席になっているのがお分かりでしょうか。
ここは画家が座るべき席であり、また鑑賞者が座る席でもあります。
家族を描いた作品でありながら、顔は薄暗く目も合わさずに食事をしています。
カイユボットはパリという都会の中でこうした「孤独な空気感」をキャンバスに描きとっていったのです。
「室内、窓辺の女性(1880)」
〜パリの大改造〜
ここまで読んで「印象派って戸外で明るくて柔らかい感じで描いた人々でしょ?室内をこんな硬いタッチで描いたカイユボットがなぜ印象派なの?」と思った方もいらっしゃるでしょう。
もちろんカーテン越しに入る光や、その反射を丁寧に描いた画家でもありますが、
最近それとは少し違う方向から印象派を評価する向きがあるようなのです。
「パリの通り、雨(1877)」
※カイユボット展には出展されません。習作は出展されます。
この頃のパリはオスマン知事のもと、大改造が行われた時期でもありました。
道は舗装され、建物の高さや屋根の色などの基準ができ、街に統一感があらわれました。
また鉄道などの交通が発達したのもこの頃です。
今私たちがパリ、と聞いて想像する街並みはこの時代に完成されたものでした。
こういった「変貌するパリを描いた」という点から印象派を見てみるのです。
カイユボットは変貌するパリとその時代の空気を描いた画家といえるでしょう。
そうするとカイユボットこそ印象派の超重要人物になってきますから、面白いですね。
こうしている間にもカイユボットは他の印象派画家たちを経済的に支え、
また印象派展の開催に奔走していました。
カイユボットの印象派支援 »
カイユボットの印象派展出展作品 »
〜カイユボットとカメラ〜
1879年、カイユボットはオスマン大通りに引越しをし、
そこからの眺めを多く描きました。
「上から眺めた大通り(1880)」
カイユボットは絵画にこのような極端な俯瞰を取り入れたはじめての画家だと言われています。
そしてカイユボットの作品にこの頃普及したカメラの影響があったことに間違いはないでしょう。
音楽家だったマルシャルは、写真家でもありました。
ブリヂストン美術館の展覧会にもマルシャルの撮影した写真が展示されますので
こちらもお見逃しなく!
カイユボットの作品には広角レンズで覗いたかのような拡がり、大胆なフレーミング、
またどこか客観的に見える作品の雰囲気もカメラを覗いてみた風景と通じるものがあります。
さて、ここでひとつ勘違いしていただきたくないのは
カイユボットは写真を参考にして作品を描いたでしょうが、
写真そのものをそのままキャンバスに描き取るようなことはしなかった、ということです。
つまりカイユボット自身がカメラのフレームのような視点を持っていたのではないでしょうか。
実に現代的な視点といえます。
「ヨーロッパ橋にて(c.1876-77)」
※この作品は期間限定展示となります。
〜隠居生活〜
1882年からはパリを離れ、郊外のプティ=ジャンヌヴィリエの居を移します。
そこでカイユボットは園芸やボートレースに熱中しました。
彼の作品にも植物やボート、付近の風景を描いたものが多くなっていきます。
「「アルジャントゥイユに続く支流、陽光(1882)」
また硬く緻密だった筆致もかつての印象派のような絵の具をキャンバスに置くようなものに変わっていきます。
逆にこの時期の他の印象派はこのような描き方はしなくなっていきました。
さらにカイユボットは、プティ=ジャンヌヴィリエの議員も務めるようになり
作品を描く時間が少なくなっていったようです。
そして1894年、庭仕事中に倒れ、帰らぬ人となります。
45歳、20年余りの短い画家活動でした。
「自画像(c.1889)」
〜カイユボットの夢〜
カイユボットは遺書を残していました。
それは自身が集めてきた印象派の作品の数々を国立の美術館に寄贈したい、という内容でした。
当時はまだ印象派の絵画は世間にはあまり認められていなかったため、 アカデミーやサロン派の画家だけでなく 一般の人々も反対するなどその受け入れをめぐって論争が起こりました。
このカイユボット事件と呼ばれる騒動は数年に渡って続いた末、
すべての作品ではないものの、多くの印象派の作品が国に受け入れられることになりました。
印象派の絵画が散り散りにならず、 パリのオルセー美術館で現在まとめてみることができるのは 彼の功績によるところが大きいと言えるでしょう。
カイユボットの夢は遺書通り、とはいきませんでしたが
印象派の人気や、オルセー美術館に多く足を運ぶ人の多さを知ればきっと喜ぶでしょう。
印象派を支え続けた先見の明や、現在では傑作と呼ばれる作品を買い集めた「目」は全く素晴らしいものだと言わざるを得ません。
〜画家としてのカイユボット〜
オルセー美術館には印象派の作品が多く所蔵されていますが、
残念ながらカイユボット自身の作品は多くありません。
カイユボット自身が画家として今まで忘れ去られていたのにはいくつか理由があります。
・裕福だったが故に作品を売る必要がなかった
・またそのため現在も個人で作品を所有していたり行方がわからないものが多く評価の機会が少ない
・早くに亡くなったため活動期間が短かかった
・画家としてよりも印象派を支えたパトロンとして評価されてしまった
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