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ブリヂストン美術館がカイユボットの《イエールの平原》を新所蔵&展示
2015-02-21ランダム表示
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夕暮れのカフェテラスの女性達(1877)
パステル、41×60cm
パリ、オルセー美術館(RF12257)
財産目録:ドガの大通りのカフェのドローイング
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:4人の女性が誘いを待つ喫茶店。4人のお嬢さん達は衰えた体で疲れてやつれている。
二人は非常に表現力豊かな身振りの対話をしている。けだるさの中の内緒話、ひとりは親指で歯を押し上げ、もう一人は「そうじゃないのよ!」といっている。
素晴らしい支配を与えられたパリの1コマですが同時に滑稽で哀れです。
後ろの鏡には大通りの風景が映し出されている。
遺贈時の名前:カフェ、モンマルトル大通り(Un Cafe Boulevard de Montmartre)
美術館への遺贈:許可★
ムーラン=ド=ラ=ギャレットのダンスパーティ、1876
キャンバスに油彩、131×175cm
パリ、オルセー美術館(RF2740)
財産目録:ルノワールによる絵画「ダンスパーティ」
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:パリの詩情、ダンスと愛と太陽の光に酔いしれる見事なムーラン=ド=ラ=ギャレット
遺贈時の名前:ムーラン=ド=ラ=ギャレット(The Moulin de la Galette)
美術館への遺贈:許可★
そうそう、カイユボットの最初の遺書には、後日談があるのです。
ルノワールがカイユボットの遺産の中から一点好きな絵をもらうことになり、このドガのパステル画、「踊りの稽古/ダンスのレッスン」を選びました。
しかし1898年、こともあろうにルノワールは譲り受けた作品をデュラン=リュエルに売却してしまったのです。
ドガはこのことに大変怒り(私がドガでも怒るなー・・・)、、ドガとルノワールは不仲になったといわれています。
って、あまりこのましくない後日談でしたね。
カイユボットは印象派の画家達を金銭的に援助したり、作品を買い上げたり、また印象派展の開催に尽力しました。
その中でもカイユボットの最大の功績は自身のコレクションを国に遺贈したことでしょう。
カイユボットは28歳の時、自分のコレクションを「 屋根裏部屋でも、地方の美術館でもなく、リュクサンブールへ、後にルーヴルへ 」収めるようにとのとの遺言を書きました。
28歳で遺言を書くという行為がこの当時一般的だったのかどうかはわかりませんが、
二年前に父親が亡くなり莫大な財産を相続した時だったし、
法律を習っていたこともあったので不思議なことではないのかもしれませんね。
また、カイユボットがこの遺言を書いた二日前にすぐ下の弟ルネがなくなっているのです。
もやもやと遺言のことを考えていた時に弟がなくなり、遺言を形にした、というところでしょうか。
遺言を書いた年に描いた作品。右に座る男はルネがモデル。
その後も何度か遺言が付け足されましたが、「遺贈する」という彼の意志が覆ることはありませんでした。
ところがその頃印象派は一般的には認められていなかったので、その受け入れを巡って論争が巻き起こりました。
論争は「カイユボット事件」と呼ばれるほどで、いかに大きな論争だったか物語っています。
なんとかそれらの作品が受け入れられるようにと頑張った中の一人が、
ギュスターヴ=カイユボットの末弟、マルシャル=カイユボットです。
今では印象派は日本をはじめ世界で非常に人気があり、また高値で取引されています。
しかし、カイユボット事件がなかったら、
印象派が評価されるのはもう少し遅かったかもしれないですね。
この時遺贈されたカイユボットのコレクションは、パリのオルセー美術館で見ることが出来ます。
後ろ向きにしゃがんだ女性(1876/77)
パステル、18×14cm
パリ、オルセー美術館(RF12254)
財産目録:ドガのドローイング「化粧室」
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:化粧室の女性
遺贈時の名前:化粧室のキャビネット(femme nue, accroupie, de dos)
美術館への遺贈:許可
「端役」というタイトルでも知られる「コーラス」(c1880)
パステル、27×31cm
パリ、オルセー美術館(RF12259)
財産目録:白の額縁にはいったドガによるドローイング「コーラス」
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:16世紀の衣装に身を包んだ端役の人々の列。タイツ、切れ目のはいった袖、半分、付け髭、開いた口。とてつもなく伸ばされた手、曲がったひじ。
遺贈時の名前:コーラス(Les figurants)
美術館への遺贈:許可
練習をする踊り子の肖像(c1879)
パステル、64×56cm
ニューヨーク、メトロポリタン美術館
(匿名の寄贈→H.O.ハヴマイヤー・コレクション)
財産目録:同じく、白いの額縁のドガによるドローイング
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:バイオリニストと若い女性の踊り子。
遺贈時の名前:記載なし
この絵はルノワールに残されたが、彼は早くも 1898年にはこれを売ってしまった。
※メトロポリタン美術館の注釈によると、この絵はカイユボットが1879年の第四回印象派展の前後に購入したと思われるとのこと。
バレーダンサーの半身像の習作(c1880)
パステル、59×45cm
パリ、オルセー美術館(RF12260)
財産目録:金の額縁にはいったドガによるドローイング「女性シンガー」
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:バレーダンサーの半身画。髪と腰は青緑のリボンで飾られている。
遺贈時の名前:カフェコンサートの女性シンガー(Chanteuse de cafe-concert)
美術館への遺贈:許可
間違って女性シンガーというタイトルがつけられた、バレーダンサーの半身像の習作
競馬(1865)
キャンバスに油彩、32×41cm
所在地不明。ルアールとウィルデンステインの1975年の著書を参照のこと。no.96。
財産目録:記載なし
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:競走馬の小さな素描画
遺贈時の名前:記載なし
クローケーゲーム(1871)
キャンバスに油彩、47×73cm
所在地不明。ルアールとウィルデンステインの1975年の著書を参照のこと。no.173。
財産目録:金の額縁にはいったマネによる絵画「クローケー」
ギュスターヴ=ジェフロワの目録:サンタドレスで描かれたクローケーのゲーム。動かず静かな七人が描かれた気持ちのよい絵画。突風による大気の動きが身振りや帆や旗からわかる。
遺贈時の名前:クローケーゲーム(La partie de croquet)
美術館への遺贈:拒否
※クローケーとは、木製の球を木槌でうつゲームのことで、日本のゲートボールの元となった。