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ブリヂストン美術館がカイユボットの《イエールの平原》を新所蔵&展示
2015-02-21ランダム表示
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|ジャン=ベロー(Jean Beraud)|舞踏会|1878|パリ、個人蔵|
カイユボットは印象派の画家達を金銭的に援助したり、作品を買い上げたり、また印象派展の開催に尽力しました。
その中でもカイユボットの最大の功績は自身のコレクションを国に遺贈したことでしょう。
カイユボットは28歳の時、自分のコレクションを「 屋根裏部屋でも、地方の美術館でもなく、リュクサンブールへ、後にルーヴルへ 」収めるようにとのとの遺言を書きました。
28歳で遺言を書くという行為がこの当時一般的だったのかどうかはわかりませんが、
二年前に父親が亡くなり莫大な財産を相続した時だったし、
法律を習っていたこともあったので不思議なことではないのかもしれませんね。
また、カイユボットがこの遺言を書いた二日前にすぐ下の弟ルネがなくなっているのです。
もやもやと遺言のことを考えていた時に弟がなくなり、遺言を形にした、というところでしょうか。
遺言を書いた年に描いた作品。右に座る男はルネがモデル。
その後も何度か遺言が付け足されましたが、「遺贈する」という彼の意志が覆ることはありませんでした。
ところがその頃印象派は一般的には認められていなかったので、その受け入れを巡って論争が巻き起こりました。
論争は「カイユボット事件」と呼ばれるほどで、いかに大きな論争だったか物語っています。
なんとかそれらの作品が受け入れられるようにと頑張った中の一人が、
ギュスターヴ=カイユボットの末弟、マルシャル=カイユボットです。
今では印象派は日本をはじめ世界で非常に人気があり、また高値で取引されています。
しかし、カイユボット事件がなかったら、
印象派が評価されるのはもう少し遅かったかもしれないですね。
この時遺贈されたカイユボットのコレクションは、パリのオルセー美術館で見ることが出来ます。
ギュスターヴには、アルフレッドという名の血のつながらないお兄さんがいました。
父と最初の奥さんの間の子で、将来は聖職者になります。
その最初の奥さんの名前はアデル=ゾエ=ボワシエール夫人。
ギュスターヴは三番目の奥さん(セレステ)の子供です。
二番目の奥さんのことについては今のところ何もわかっていません。
(※二番目の奥さんについてはこちらをご参照下さい)
ギュスターヴの下には3歳離れてルネ、さらに2歳離れて父と同じマルシャルという名前の弟がいます。
アルフレッド一人が血のつながらない兄弟だったのですが
兄弟で一緒に旅行に出かけたり、
異母兄がつとめていた教会に下の三兄弟で教会の窓を寄贈したり、
また末の弟マルシャルが結婚をしたときはアルフレッドが牧師として説教をおこなった
・・・というような話が残っています。
アルフレッドの年がひとり離れて(ギュスターヴより15歳上)いたこともあったのでしょうか、
ずいぶんと上手くやっていたように思えます。
ここまできくと、亡くなった前妻の子アルフレッドを温かく迎えて・・・
というイメージが浮かびますが、
・・・どうも、ボワシエール夫人、亡くなっていないみたいなんです・・・。
※亡くなっていました。
ギュスターヴが1877年に「編み物をするマダム・ボワシエール」という作品を描いているのです。
この時代に、離婚って普通にあったのかしら・・・???
しかも絵を描いてあげるほど家族ぐるみで仲良しなの・・・???
すごく、謎です・・・。
※こちらは、前妻のお母様がモデルでした。
カイユボットのボートの進水の様子。
1890年頃、弟のマルシャル写す。
カイユボットとマルシャルはこの頃ボート競技にかなりはまっており、数々のレースに出たり、また賞を得たりしていました。
カイユボット(ギュスターヴ)が1歳の頃の両親。
父マルシャル=カイユボットと母セレステ。
Jul. Bally画 パステル