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人物辞典、Who's who

アルフレッド=シスレー|Alfred Sisley(1839-1899)
アルフレッド=シスレー 印象派の代表的画家の一人。主に風景画などの自然を描き、自然への素朴な心情を終生失わなかった。第一回、第二回、第三回、第七回の印象派展に参加。カイユボットは彼の作品を8点を所有しており、そのすべてが美術館に受理された。

アレクサンドル=カバネル|Alexandre Cabanel(1823-1889)
カバネルアカデミズムの代表画家。カイユボットがエコール=デ=ボザールに通っていた頃の絵画科の名誉教授の一人。サロンの審査員もたびたび務め、ブグローとともに印象派にとっての「敵」であった。代表作は「ヴィーナスの誕生(1863)」

アンリ=ルアール|Henri-Stanislas Rouart(1833-1912)
画家、実業家。カイユボットと同じミロメニル通りに住むご近所であった。裕福な家庭で育ち、資金面で印象派を支援した。ドガと親交が深く、またピサロにカイユボットを紹介した。第七回を除く印象派展に参加。

エコール=デ=ボザール|Ecole des Beaux-Arts
官立美術学校。フランスの最も重要な美術学校。エコール=デ=ボザールで認められることは画家としての将来を約束されたようなものだった。アカデミー風の作品を良しとし、印象派とは相容れなかった。
1873年2月、カイユボットはボナの弟子枠で合格したが、あまり通っていなかったようだ。

エドゥアール=マネ|Édouard Manet(1832-1883)
マネ印象派の先駆者的画家。「草上の昼食」「オランピア」などの絵が物議を醸すが、マネを先導者と見なす前衛画家たちが彼の周りに集まり、いわゆるバティニョール派を形成。しかしマネ自身は印象派展には一度も参加しなかった。1890年に「オランピア」を国家に寄付するためにモネが醵金を募り、カイユボットもそのリストに載っていた。カイユボットは彼の作品を3点(ジェフロワの目録では4点)を所有しており、そのうち2点が美術館に受理された。

エドガー=ドガ|Edgar Degas(1834-1917)
エドガー=ドガエコール=デ=ボザールに入学。印象派の代表的画家であるが、印象派の理論を完全に支持していたわけではない。印象派展の開催をめぐって主にカイユボットと対立する。カイユボットはドガの画風を賞賛しており自身の画風もドガ的とよく評されるが、ドガの人間性を苦々しく思っていたようである。第七回以外のすべての印象派展に参加。
カイユボットの所有していたドガのパステル8点のうち7点がリュクサンブール美術館に受理された。残りの一枚「ダンスのレッスン」はルノワールに遺品として残されたが、ルノワールがそれを売ってしまったため、ふたりの間に遺恨が残った。

エミール=ゾラ|Émile Zola(1840-1902)
エミール=ゾラ 作家で美術評論家。印象派を擁護した作品を出したり夕食会に参加したりもしたが、1886年印象派のことをモデルに書いた『L'Œuvre』の発表によって多くの印象派と仲が悪くなった。
自身の記事の中ではカイユボットについて「非創造的で本物に似せた描き方を写真にたとえ厳しく批判している。」(参考文献8,P267)

エルネスト=オシュデ|Ernest Hoschedé(1837-1891)
美術商であり印象派のコレクター。1878年に破産し、一時モネと一緒に住む。エルネストの死後、彼の妻のアリスはモネと結婚し、カイユボットはその立会人となった。

オテル=ドゥルオ|Holel Drouot
政府の管理下で、パリにおけるあらゆる競売や展示即売会が行われていた場所。
画家自身による印象派の作品のオークションが開かれたこともある。1879年にはカイユボットの「6階からみたパリの通り(冬の霧)」が売られたこともある。

カミーユ=ピサロ|Camille Pissarro(1830-1903)
カミーユ=ピサロ印象派の代表的画家。一番の年長者で温厚なその性格から印象派画家の父親的な存在であった。すべての印象派展に参加した唯一の人物。カイユボットのドガに対する不満をよく聞かされていたが、ピサロ自身はドガの肩を持っていた。カイユボットはピサロに定期的な金銭支援をしており、カイユボットの所有していたピサロの絵画13点と、後にルノワールによって追加された5点を含む18点がリュクサンブール美術館に受理された。ユイスマンがカイユボットの作品を褒めたことを不満に思っていた。

カル|Adolphe-Felix Cals(1810-1880)
カル光と陰の対比で感傷的な風景画や、貧困層や漁村、労働者の抑圧された生活風俗シーンを描いた。第一〜四回印象派展に参加。

ギュスターヴ=ジェフロワ|Gustave Geffroy(1885-1926)
ギュスターヴ=ジェフロワジャーナリストで文筆家で美術評論家。カイユボット死亡時に彼の財産目録を作成する。(1894)

クロード=モネ|Claude Monet(1840-1926)
クロード=モネ 印象派の代表画家で第一回印象派展に参加。彼の「印象・日の出」にちなんで印象派という言葉が誕生した。光と色彩の探求を続け、後年はジヴェルニーで睡蓮を描き続けた。
カイユボットはしばしばモネの作品を購入したりお金を都合したりしていた。カイユボットは彼の作品を16点を所有しており、そのすべてが美術館に受理された。

ジャック=フランソワ|Jacques Francois
けして本名を明かさなかった女性。第二、三回印象派展に参加。

ジャン=フランソワ=ラファエリ|Jean-François Raffaelli(1850-1924)
ジャン・フランソワ・ラファエリ ドガに推薦され第五、六回印象派展に参加。貧困層を描き社会的批判に満ちた作品を描いた。もともとジェロームに師事し、写実的傾向の絵を描いていたため印象派展のイメージをゆがめ、ドガと他の印象派達の亀裂を深める原因となった。
カイユボット達はラファエリが印象派展に加わることを大変いやがっていた。

ジャン=ベロー|Jean Béraud(1849-1936)
ジャン=ベローパリで法律を勉強後、ボナのスタジオで美術を勉強。パリの日常生活を描きアカデミー派の流行画家として名声を得る。1878年にカイユボット邸でのパーティの様子を描く

ジャン・ルイ=フォラン|Jean-Louis Forain(1852-1931)
ジャン=ルイ=フォランジェロームに師事。のちにマネやドガ、浮世絵に影響を受け歴史画家から転向。戯画で有名になる。カフェ・ゲルボワの常連の一人で印象派の画家と親交があった。第四、五、六、八回印象派展に参加。

ジャン・レオン=ジェローム|Jean-Léon Gérôme(1824-1904)
ジャン・レオン=ジェロームアカデミズムの代表画家。カイユボットがエコール=デ=ボザールに通っていた頃の絵画科の名誉教授の一人。印象派と敵対し、カイユボットコレクションをリュクサンブール美術館に受け入れることに「もし国がそのような屑を受け入れるのなら、道徳の腐敗はすでに大きく進んでいるのに違いない」と激しく反対した。

ジュゼッペ=デ=ニッティス|Giuseppe De Nittis(1846-1884)
ジュゼッペ=デ=ニッティスイタリアの画家。モネやドガと親交があった。サロンで成功をおさめたが、印象派にも共感を寄せており第一回印象派展に参加。カイユボットの勧めでモネの作品を購入したり、カイユボットがニッティスの息子のジャックのゴッドファーザーになったという話も残っている。ニッティスはカイユボットとの親交のために土曜の晩の定期的な夕食会をパリのアパルトマンで開催していた模様。

ヴィクトール=ショケ|Victor Choquet(1821-1891)
ヴィクトール=ショケ数少ない印象派擁護者の1人。

ジョルジュ=シャルパンティエ|Georges Charpentier(1846-1905)
ジョルジュ=シャルパンティエ出版業者で印象派コレクター。画廊で印象派の画家の展覧会を開くなど彼らを擁護した。

ジョルジュ=ド=ベリオ|Georges de Bellio(1828-1894)
ジョルジュ=ド=ベリオ< ルーマニア人の医者で熱心な印象派コレクター。「印象・日の出」を所有していた。定期的にカフェ=リシュの晩餐会に参加し、カイユボットとは手紙のやり取りをしていた。

ティヨ|Charles Tillot(1824-1869)
バルビゾン派の画家。主に風景や海の絵を描き、第二、三、四、五、六、八回印象派展に参加。

デュラン=リュエル|Paul Durand-Ruel(1833-1922)
デュラン=リュエル印象派を最初に支持した画商。彼の画廊は印象派展の開催地となる。印象派の画家たちを積極的に援助し、国内だけではなく海外にも紹介した。1894年カイユボットの回顧展がデュラン=リュエルのギャラリーで開かれる。

フレデリック=バジール|Frederic Bazille(1841-1870)
バジール バティニョール派の代表画家。印象派の画家達と親交があり、サロン以外での作品発表の場をもうけようとするが普仏戦争に徴兵され、29歳の若さで亡くなる。
裕福な家庭で育ち印象派を支えたなど、カイユボットとの共通点があると言われている。(印象派支援 »

ピエール・オーギュスト=ルノワール|Pierre-Auguste Renoir(1841-1919)
ルノワール 印象派の代表画家。作品は女性や喜びに満ちあふれている。第二回印象派展にカイユボットを誘う。カイユボットとと仲が良く、カイユボットの死亡時に遺言執行人に任命される。また、ルノワールが事業の失敗で負った借金はカイユボットの遺産から支払われた。彼のムーラン=ド=ラ=ギャレットのモデル(手前右の帽子の男)となった。カイユボットはルノワールの息子ピエールのゴッドファーザーとなる。カイユボットは彼の作品を8点を所有しており、そのすべてが美術館に受理された。第一、二、三、七回印象派展に参加。

ピル|Isidore-Alexandre-Augustin Pils(1813-1875)
アカデミー系の写実主義の画家。エコール=デ=ボザールの教授。

ビュロー|Pierre Isidore Bureau(1827-1876)
風景画家。第一、二回印象派展に参加。

フェリックス=ブラックモン|Félix Bracquemond(1833-1914)
フェリックス=ブラックモン マリー=ブラックモンの夫で版画家。第一、四、五回印象派展に参加するが自身は印象派よりもアングルなどの絵を好んでいた。ドガからカイユボットに対する不満をよく聞かされていた。

マリー=ブラックモン|Marie Bracquemond(1841-1916)
マリー=ブラックモン フェリックス=ブラックモンの妻で女性画家の代表の一人。モネを賞賛していた。第四、五、八回印象派展に参加。才能があったが母業に専念するため絵画から離れる。

ポール=セザンヌ|Paul Cézanne(1839-1906)
セザンヌ 後期印象派の代表画家。少年時代ゾラと仲が良かった。第一、三回印象派展に参加したがその作品はなかなか理解されずまた生活にも苦労をした。カイユボットの母の死に際し、お悔やみの手紙を出している。カイユボットは彼の作品を4点(ジェフロワの目録では5点)を所有しており、そのうち2点が美術館に受理された。

ベリアール|Edouard Beliard(1836-1902)
コローに影響を受け、主に風景画を描く。カフェ・ゲルボワの常連の一人。第一、二回印象派展に参加。

マルセリン=デブータン|Marcellin Desboutin(1823-1902)
デブータン画家、版画家、詩人。カフェ=ゲルボワの常連の一人で、ドガの「アブサンを飲む女」のモデルを務める。カイユボットとはデ=ニッティスを通じて知り合う。第二回印象派展に参加。

メアリー=カサット|Mary Stevenson Cassatt(1845-1926)
メアリー=カサットドガの絵に感銘を受け、以後ドガと親交を深める。女性や子供の肖像画を多く描く。第四、五、六、八回印象派展に参加。

ルヴェール|Jean-Baptiste-Leopold Levert(1828-?)
ルヴェール風景画家、グラフィックアーティスト、軍服デザイナー。ドガに推薦され第一、三、五回印象派展に参加。

ルグロ|Alphonese Legros(1837-1911)
ルグロ1873年の落選展に出品。ドガとピサロのすすめで第二回印象派展に参加。カイユボットは彼の参加をあまり快く思っていなかった。

ルピック|Vicomte Ludovic-Napoleon Lepic(1839-1889)
皇帝の副官の息子。ドガに推薦され第一、二回印象派展に参加。印象派展を援助したが、セザンヌをグループから排除しようとしていた。サロンと印象派展の両展に出品することが禁止となり、ルピックは印象派展に出品するのをやめた。カイユボットは彼について1881年に「ルピックなんて、まったく冗談じゃありません。何の才能もないじゃありませんか。」と述べている。

レオン=ボナ|Léon Joseph Florentin Bonnat(1833-1922)
レオン=ボナ 当時非常に有名な画家で、 アトリエ(画塾)を構えて多くの生徒が彼に師事していた。
ムンクやデュフィー、ブラック、ロートレック、日本人では五姓田義松なども彼のアトリエに通う。
カイユボットは1870年〜72年前後から、彼のアトリエに通い、1873年2月エコール=デ=ボザールに「ボナの弟子枠」で合格する。ボナの弟子として合格した人はほとんどいなかった。ボナはそのときまだ若かったのだが、エコール=デ=ボザールの試験の審査員として非常勤講師のみを担当していた。
ドガと知り合いだったらしく、カイユボットにドガを紹介したのはレオン=ボナだったかもしれない。
サロン風のしっかりとした構図の絵やその顔立ちは確かにカイユボットの印象派展期の画風の中にも見て取れる。
アトリエの場所はランクレー(原文Lancrey:注・現在のLancry通りか?)通り47番地。


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